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国家経済を左右した毛織物貿易

藤井一義
 IWSマンスリー今月号から藤井一義氏による「羊毛講座」を長期連載致します。藤井氏は1924年大阪府生れ、1948年東京大学経済学部卒業とともに日本毛織に入社、主として輸出毛織物畑を歩き、アメリカ向け毛織物輸出の全盛期には伊藤忠商事の堀田輝雄氏(前副会長)とともに、輸出業界のリーダー格として活躍、取綿役に昇格後、1975年ニホンケオリアルへンティナ社長、79年中嶋弘産業(現ナカヒロ)社長なども歴任されました。中嶋弘産業退職後、1991年から(株)マネジメントコンサルティングアソシエイツのシニア・アソシエイツとして、コンサルティング・ビジネスに取り組んでおられます。

 「ノアの方舟」以来、何千年あるいはひょっとすると何万年もの間、羊は私たちと一緒に世界中をめぐる長い長い旅に出たことになります。有史以降を振り返ってみても、羊と私たちは、東から西へ、西から東へとアジア大陸やヨーロッパ大陸をぐるぐる歩き回ったあげく、結局北半球から南半球の新しい世界へと移動して、やっと安住の地を作り上げた実に壮大なスケールの旅を2000年にわたって成し遂げてきたからです。 

1.メソポタミアからの東西の旅


 羊と私たちは、文明発祥の地といわれるメソポタミアから中近東を経由して、ギリシャ、イタリアを通り、ヨーロッパ大陸を西北進する方向を辿ったのと、もう一方はエジプトを通り北アフリカの地中海沿岸を、やはり西の方向へ進んだと言われています。また、その反対に中近東を経由して、シルクロードを通ってアジア大陸を東方に向かって進んで行きました。東西どちらの方向にしても、陸路を辿り草原を求めながら、羊と私たちはそれぞれ生れ変わりながら、ゆっくりとそれこそ何年も何代もかかって進んで行く旅でした。紀元前55年、ローマ軍が羊を連れてブリテン島に侵攻してから5世紀に及ぶローマ帝国の支配下にあって、羊の飼育が定着し、イングランドに毛織物工場が建設されたと言われています。紀元476年、ローマ帝国が倒れてから10世紀頃までの「中世暗黒時代」には、ヨーロッパの人々は北方や東方から侵入してくる蛮族との抗争に明け暮れて、農業の耕作や半を飼育するような余裕に恵まれなかったようですが、それでも11世紀から12世紀頃にかけて、イングランドと同じようにローマから持ち込まれたと言われる「メリノ種」の羊がスペインで品種改良され、「スペイン・メリノ種」として、今世紀まで約1000年もかかって世界中にゆきわたって行くことになります。中世の頃、ヨーロッパの一般農民は粗末な麻織物の生地を身体にまとうだけに過ぎなかったと言われていますが、羊は王侯貴族や僧院の財産だったので毛織物は彼等だけが着用できる「高貴な衣服」でした。やがて北フランスの南ネーザーランド地方(現在のオランダ・ベルギー・北フランスの一部)の農村で毛織物工業が盛んになってくると、毛織物はヨーロッパを代表する産品として、次第に地中海沿岸沿いの交易に利用されるようになりました。

2.東インド貿易と毛織物


 11世紀に十字軍の遠征が行なわれた頃、ヨーロッパの諸侯は何度となく羊を連れて、はるか昔、彼等の祖先と羊たちが辿って来た道を反対に、西方から東方に向かって派遣されることになりますが、遠征の帰りには、自国では到底見ることの出来ない中近東や東インド諸国の代表産品であるカーペットや毛氈類、あるいは綿織物、絹織物等を持ち帰ってきたので、ヨーロッパの人々はこれらの産品を見て非常に大きな「カルチャー・ショック」を受けたと言われています。このような軍事行動まがいの国際間の交易から、産品同士の交換を目的とした本来の商業交易まで、色々様々な形で行なわれたヨーロッパと中近東・東インド諸国間の東西交流は「東インド貿易」として次第に人と産品との行き来の関係を深めていきますが、この時代はむしろ中近東や東インド諸国から受ける文化的な刺激の方がヨーロッパの生活文化に対して、あるいは当時の経済活動であった農牧業や毛織物をつくる手工業に対して強い影響を及ぼしているのです。近世に入った頃の「東インド貿易」で東インド諸国が求めていた産品は、まず何と言っても貴金属や南ドイツ産の銀、銅などの鉱産物と、それに次いでイタリア、スペイン、南ネーザーランド地方産の毛織物でした。一方、ヨーロッパ側が望んでいた産品は、胡椒(こしょう)、肉桂(にっき)、サフラン等の香辛料、次いで熱帯性植物や果物、そして綿織物や絹織物等でした。近世後期の頃まで、この東インド貿易は、ヴェニス、ジェノアやヴェネツィア等のイタリアの諸都市を中心に行なわれていましたが、後にポルトガルのリスボンに取り引きの重点が移っていきます。しかし、イタリアにしてもポルトガルにしても、すべて王朝やその権力に結び付いた「特権商人」たちがヨーロッパ中の産品をあちらこちらから買い集めた上で交易していた、いわゆる「中継貿易」であって、そのうえこれらの「特権商人」たちが交渉する相手のアラビア商人たち自身もまた仲介によって東インド諸国の産品を手に入れた上で、この「特権商人」たちと交易商談をしていたので、「東インド貿易」の実態は結局仲介商人同士の取り引きだったのです。

3.新大陸と東インド新ルート発見がヨーロッパに及ぼした影響


 1492年コロンブスによるアメリカ新大陸発見と、1498年ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰を迂回する東インド航路の新ルート発見は、東インド貿易の中で非常に重要な国際商品であった銀と毛織物とこの交易に携わってきた仲介商人たちの「位置付け」や「役割」を一変させてしまいました。

(1)中継貿易の没落と商業革命


 まず第一の変革は、中継貿易がすっかり没落してしまったことです。アフリカ大陸の海岸に沿って南下し、喜望峰を回って北上する新ルートを利用すれば、航海力がある限り誰でもインド洋に出て、中近東や東インド諸国に到達できるわけですから、産品の調達や交易が直接当事者間でできることになりました。そのうえさらに第2の変革は、新大陸アメリカで発見された非常にコストの安い「銀」が大量にヨーロッパに運ばれてきて、銀相場がいっペんに急落したため、南ドイツ産の銀や他の鉱産物を支配して仲介の暴利をむさぼっていたドイツの「高利貸し資本家」や、イタリア、ポルトガルの「特権商人」たちが急速に破産の運命を辿ることになってしまったのです。その結果、ヨーロッパの商人たちは東インド貿易のための中継港であったヴェニス、ジェノア、ヴェネツイアやリスボンにわざわざ立ち寄る必要がなくなり、ヨーロッパ産品を仲介していたイタリアやポルトガルの「特権商人」たちや、彼らと特別の取引関係をもって東インド諸国産品の仲介をしていたアラビア商人たちの手も借りる必要がなくなってしまったのです。結局、東インド諸国の望む銀や毛織物をコストさえ安く入手できれば、そして長期で危険な海路の旅を続ける勇気と航海力さえ持てれば、現地へ出掛けてヨーロッパの欲しい産品を直接買い付け、自分自身の手で、持ち帰れるようになりましたから、仲介商人たちがさまぎまな形で連繋していたヨーロッパ内陸や地中海周辺の海路に、従来からあった商業交易のルートがすっかり変わってしまって、ヨーロッパ全土にあの有名な「商業革命の嵐」が発生することになりました。

(2)新大陸と東インド諸国を結ぶ"キーワード"商品の毛織物


 そこで、新大陸アメリカでは銀の採掘、牧羊や綿花の栽培等が大きく脚光を浴びて、ヨーロッパ中の団が争って新大陸の植民地経営に乗り出すことになりましたが、その結果、新大陸アメリカとヨーロッパ大陸との両方で、羊と毛織物をめぐる膨大な新規需要が起こって来て、この新規需要に対して、スペイン、オランダ、イギリスをはじめヨーロッパ中の牧羊業も毛織物工業も揃って興奮の渦の中に放り込まれることになりました。つまり、「東インド貿易」の花形輸出品であった南ドイツ産の「銀」とは比較にならないほど安い「銀」を新大陸アメリカから自国に持ち込もうとすれば、その代償として、新大陸に入植して労働する人々の着る「毛織物」を新大陸に向かって輸出せねばなりません。さらに、従来通り、ヨーロッパの珍重する胡椒等の香辛料や、カーペット、絹織物、綿織物等の東インド諸国の産品を自国に持ち込もうとすれば、代償として、新大陸からの安い「銀」とヨーロッパの「毛織物」を東インド諸国に輸出せねばならないわけですから、ヨーロッパを中心軸にして新大陸アメリカと東インド諸国との貿易関係を結び付ける"キーワード"商品は、「銀」と「毛織物」になってしまったのです。引き続いて新大陸からおびただしい量の銀がヨーロッパに流れ込んでくるようになると、南ドイツ産の「銀」が大暴落を起こしたのは当然のことですが、それに比べるとヨーロッパだけでしか生産されていなかった「毛織物」に対する需要はさらに急上昇して、ヨーロッパの代表的な花形輸出産品としてだけでなく、新大陸-ヨーロッパ-東インドの3市場を連結する"キーワード"商品として、ますます重要な位置を占めるようになっていったのです。

4.毛織物工業国三強の国際競争


(1)スペインの毛織物工業


 16世紀半ば頃まで絶対制王朝の庇護によって繁栄の頂点に達していたスペインの毛織物工業は、王朝自身が以前から南ドイツの高利貸し資本家やイタリアの「特権商人」に対して多額の負債を負っていたのと、史上最強といわれた「無敵艦隊」をはじめ軍事力を維持するために無理な財政支出を行なったのとが重なり、赤字国に転落してしまったので、一般国民をはじめ諸工業に従事する人々は「インフレ」と「重税」とに苦しむようになって、当時ようやく自立自営を始めたばかりの毛織物業者たちはとうとう赤字経営に陥り、国際競争力をなくしてしまうことになりました。せっかく新大陸から大量の「銀」を運んで来ても、その「銀」は国外に流出するほうが多くて、国民経済に貢献できなかったのです。そこへもってきて新大陸からどんどん運ばれてくるコストの安い「銀」が、いつもスペインの物価を押しあげていた背景的な事情もあって、ますますコスト競争に勝てないようになり、その結果、16世紀後半、もろくも南ネーザーランド地方の毛織物工業に「王座」を明け渡してしまうことになりました。もちろん強大さを誇っていた軍事力も、イギリス、オランダ両国の急激な追い上げによる「挟み撃ち」にあって、どんどん衰退していきましたから、新大陸アメリカにおける彼らの牧羊入植事業も、このような本国の影響を受けて次第に弱体化せぎるを得ませんでした。かつて全世界にまたがる植民地を領有した、全盛を誇ったスペイン王国も、17世紀を待たずに毛織物工業とともに世界史の栄光の舞台から消え去っていったのです。


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