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毛織物がもたらした農民の悲劇


藤井一義

(2)南ネーザーランド地方(現在のオランダ、ベルギー、北フランスの一部)の毛織物工業


 南ネーザーランド地方の毛織物工業は、随分古くからスペイン・イギリス等から原料羊毛を輸入して毛織物を製造加工し、スペインをはじめヨーロッパ諸国に輸出していました。13世紀頃から農村を中心にして問屋制度の下で自立自営しようとする「中産的生産者層」(マニュファクチャー)が大勢出てきて、彼等の価格競争力はなかなか優れたものがあった上に、毛織物の製造加工技術も非常に高く評価されていましたので、次第にスペインの毛織物工業の座を脅かしていくようになりました。ところが1585年、スペイン軍が南ネーザーランドの中心地アントワープを占領したため、彼等は故郷を追われて大挙集団移動し、アムステルダムやライデンの方に北上せざるを得ないことになってしまいました。この時、一部の熟練した職人達がイギリスの毛織物工業に迎えられて農村に移住定着し、イングランドで当時勃興しつつあった毛織物工業に対して技術指導を行なっています。当時まだ羊毛原料生産国であったイングランドが、後年毛織物生産国に変わり、特に梳毛織物の名声を高めることになったのは、これらのオランダ熟練職人の優れた製造技術が非常に大きく貢献したからです。 (註1参照)

 その後オランダに独立連邦共和制が確立すると、彼等は以前よりも更に活発に活動を始め、1602年「東インド会社」を設立して貿易経済力を大いに高めてゆきます。軍事上でもイギリス艦隊と連合して、有名な「スペイン無敵艦隊」を撃破した後は、東インド新ルート沿いにスペイン・ポルトガルの領有地を次から次へと追い落としながら、遠くインド洋を回り、アジアを経て極東「日本」に到達しています。そして江戸幕府に対して持ち前の通商交渉力を発揮して、鎖国後もヨーロッパ列強の中でオランダだけが通商関係を続けることができました。このように彼等は活動範囲を急速に拡大し、世界のほとんど全地域にわたってオランダの足跡を今世紀まで残すことになりました。しかし、元来オランダは湿地帯が多く羊の飼育には適していないため、南アフリカに牧羊入植事業を計画したのですが、ついに成功出来ずに終りました。したがって原料羊毛をすべて商業資本の手を借りて外国からの輸入に頼らなければならなかったので、せっかく自立自営を目指した「中産的生産者層」も、王侯貴族や彼等に結び付いた強力な問屋制商業資本の支配下に完全に抑制されてしまい、産業資本として自立できないまま衰退に向かわぎるを得ませんでした。このような経過で、彼等はついに、16世紀からめぎましい勢いで躍進してきたイギリスの毛織物工業の後塵を拝することになってしまったのです。 (註1参照)

(3)三強-スペイン・オランダ・イギリス


 スペイン・オランダの両国がたどった経緯が示しているように、毛織物工業の生産力に裏付けられた経済力と海軍を中心にした軍事力との連携がその国の行動半径を拡大する重要な要素となってゆきます。コロンブス以来西方ルートに向かったスペインは南北アメリカを縦横に駆け巡って、インカ帝国をはじめ現地の文化を破壊し、多くの原住民を滅亡させて、太平洋沿岸のほぼ全域を制覇することになりました。一方オランダは東方ルートをとり「東インド会社」を設立してアフリカを迂回し東インド諸国どころか、インド洋沿岸、東南アジアから極東の南太平洋地域に彼等の交易勢力圏を伸ばしてゆきました。このようにして、とうとうヨーロッパをスタートした両国の東方ルートと西方ルートとが太平洋上で結ばれることになったのです。スペイン・オランダが多くの危険と困難を乗り越えて「未知の世界」を切り開く「開拓精神」に燃えた行動をとったことを誰も否定しませんが、スペインが軍事力によって常に植民地の「征服収奪」を行動目的としていたことが、現在スペイン植民地跡の随所に残されているのに対して、オランダは新しく発見し開拓した地域や国家との間にまず「商業交易」による人と産品との交流を試みることを常に考えて行動したように思われます。この両国の後を追って彼等の踵(きびす)に接するように行動したイギリスの開拓精神は、両国に劣らず非常に旺盛で、時には海賊行為をするような勇猛な要素がなければ、今日の米国や豪州・ニュージーランドは存在していなかったと思われます。更にこの開拓精神の背景となり、あるいは彼等の行動を押し進めた「理念」といえる要素がスペイン・オランダとは少し違っているように見えます。いわゆる「見えざる手」に導かれたのかも知れないのですが、彼等は常にイギリス本国を中核においた「生産力」を念頭に持ち続けて行動する戦略構想を維持していたと考えざるを得ません。しかし、結局のところ、イギリスは三強の「最後の勝利者」としてユニオンジャックの旗の下に「新しい世界」と「新しい市場」を作り上げることを計画し、その構想を強引にしかも確実に実現した国家でした。このようにして、16世紀から18世紀までの3世紀の間、世界史の舞台の上でこれら三強をそれぞれ主役に、牧羊や毛織物工業を背景にした「新しい世界」を創造するドラマが、いよいよ最高潮に達することになってゆきます。

5.イギリスの毛織物工業と「綜画運動」(囲い込み運動)の展開


 三強のうちイギリスは、毛織物や綿織物を生産する繊維工業にしても海軍力を築いた造船、機械、金属工業にしてもヨーロッパ諸国の中で抜群の活動を展開して「産業革命」を成功させ、国内に「産業社会」を建設し、更にそれを基礎として「大英帝国」を作り上げました。そして18世紀から今世紀の初期に至るまで、軍事・外交・政治・経済のあらゆる分野において「近代資本主義のリーダー」として、長らく世界に君臨してきました。したがって、イギリスを舞台にし、羊とイギリスの人々を主人公として、封建制度の末期から「新しい世界」をどのように作ってきたかを見ることによって、今日の「ウールと私達」との関係や経緯(いきさつ)の真髄に触れるところがたくさんあると思われます。

(1)「綜画運動」(囲い込み運動)


 新大陸と東インド新ルートの発見は毛織物を世界貿易の頂点に立たせましたが、結果としてヨーロッパ中に毛織物とその原料素材となる羊毛(ウール)に対する厖大な需要を一斉に呼び起こすことになりました。もともと伝統的にすぐれた羊毛生産国であったイギリスは、14世紀半ば頃から、東インド貿易に対する輸出需要を背景に、王室の振興政策によって急速に毛織物工業が発達し、毛織物生産国として頭角をあらわしました。そして更に15世紀末から16世紀半ば頃にかけてこの厖大な新大陸需要を受けて、イングランドを中心に、領主をはじめ富裕な商人や、農村で毛織物工業を自営している農民達が、封建時代からずっと続いている農地制度を変革する行動に出たのです。それまで整然とした区画で使われてきた農耕専用の私有地や、「入会地」(いりあいち)の共同用地までを「権力づく」「金銭づく」で強引に「牧用地」として石垣や垣根で囲い込んでしまう、いわゆる「綜画運動」が各地で展開されるようになりました。毛織物需要は更に一層過熱化してゆきましたから、ちょうど枯れ野に火を放ったように「綜画運動」がイギリス中に広がってゆくとともに、農民達はまず肝心の土地や住居を失い、失職して「流浪の民」となって、あちらこちらで不穏な行動をとったり、犯罪を犯す等の社会問題を惹き起こすようになりました。農民達が去った後、農村は見る影もなく荒廃していったのと同時に、町では紡糸や織布業に携わる専門職人集団の「ギルド組織」から閉め出された下級職人達が、「町から村へ」と流出していって、耕作地を失った貧窮農民と同じ運命をたどることとなり、治安を乱し色々なトラブルを起こしながら「綜画運動」はイギリス全土に拡がってゆきました。「綜画運動」の直接目的としている毛織物増産のための「牧羊地の囲い込み」をこのまま続けてゆくと、国土の狭いイギリスでは農民や職人達の「貧窮民」をまき込んで治安上や政治上の紛争を更に一層大きくして、まったく収集のつかないところまで来てしまう「おそれ」が充分あったのですが、といって仮に牧羊地をヨーロッパの中で求めようとしても、それこそ武力を使って他国でも侵略するような無謀なことをしない限りは、もうどこへ行っても羊を飼育できる土地の余裕など無くなっていたのです。

(2)貸金労働者への道


 農地を離れた貧窮農民や職を失った下級職人達の群衆が、あちらこちらを徘徊して様々な問題を起こすようになると、王室は「救貧法」を公布して、更に一層厳しい懲罰でもってこれらの「流浪の民」を取り締まりました。そこで彼等はいよいよ窮地に追いつめられることになり、なんとか自分自身で解決の方法を選ばざるを得なくなったのです。職を失い行き場所を失った彼等にとって、流浪や徘徊を止めて家族と一緒に生活を続けるためには、二つの方向の解決方法しかありませんでした。ひとつの方向は、当時既に農村の中に住んでいて、小規模ながらも毛織物工業で自営独立体制を整えつつあった「中産的生産者層」(マニュファクチャー)に属する人々、あるいは富裕な商人の営む毛織物工場で、賃金を貰って「やとわれ職人」として働くことでした。当時アメリカ新大陸や東インド諸国への厖大な輸出需要を抱えていた毛織物工業にとっては、到底こなし切れないくらいの仕事があったので、むしろ人手不足を補う意味で親方職人の「下請け」あるいは「下働き」のような形でこれらの「貧窮民」を吸収することが出来たのです。このようにしていわゆる「賃金労働者」の初期の形が農村の毛織物工業の中に次第に定着してゆくことになりました。さらに農村では、急速に発展している毛織物工業の周囲に鉱工業や金属工業等も徐々に同じような形で成長して来る段階だったので、このような農村工業に家族もろとも就職して、賃金を受け取る代償に労働を提供する「賃金労働者」という新しい形の職種に入ってゆかぎるを得なかったのです。このようなせっぱつまった選択が、たとえ少ない賃金収入で、ひどい労働条件であっても、彼等にとっては背に腹はかえられない現実だったといえます。16世紀半ば頃から18世紀にかけて嵐のように吹き荒れたといわれる「綜画運動」はイギリスの農村をすっかり変貌させ、一方では「貧窮民」をつくり出しながら、同時に一方では彼等を毛織物工業の中に吸収しながら、全体として毛織物工業を国民的規模にまで発展させてゆきました。そしてその「担い手」となった「中産的生産者層」がやがて「産業革命」を経て「資本家」と「賃金労働者」の二極をつくり出しす原型となった訳です。 (註1参照)

(3)新大陸への道


 もう一方の解決方向は、新大陸の植民地に自由の天地を求めて、移民として移住することでした。太古の昔「ノアの方舟」に乗って洪水を逃れたのと同じように、家族と羊とを連れて移民船に乗り込んだ人々は、その当時の帆船の航海力では、新大陸に到着するのに何カ月かかるか皆目見当もつかない旅程のことや、気候風土も全く分からないアメリカ大陸での新しい生活に対して、期待と不安が入り交じる複雑な思いで大西洋の荒波を眺めながら、苦難の長旅に出発してゆきましたが、彼等が下した決断と勇気は賞賛に値することでした。かつてメソポタミアを出て陸路を辿りながら、ヨーロッパ大陸や中央アジア大陸を西方や東方へ移動していった羊と私達は、今度は更に速い遥かな海路を西方に向かって、「新しい世界」での「新しい牧用地」を求めて旅立つことになったのです。

註1:「中産的生産者層」(マニュファクチャー)
 イギリスの毛織物工業の名実ともに「創業者」となった「中間的生産者層」(マニュファクチャー)は、ヨーロッパの他地域にも例を見ることが出来ますが、イギリスにおいて典型的な成長を遂げました。
 14世紀末イングランドでは、既に農地制度をはじめ封建時代からの規制が崩されてゆく頃でしたが、まず「自営農民」群の中から、毛織物の輸出需要を目当てに毛織物の生産によって生計をたてようとする、いわば小さな「親方職人」が多勢現われてきました。15世紀から16世紀にかけての新大陸需要を受けて、彼等は半農半工の姿から毛織物生産を主体にした自営独立の地盤を固めながら、ますますその数を増やしてゆきました。「中産的生産者層」(マニュファクチャー)とは、まず農村に住んで小区画地で農耕をしますが、穀物の生産よりもむしろ毛織物を生産し加工賃を稼ぐことを主な収入にして生計を立てていたこれらの「小さな親方職人群」を総称しています。彼等は自前の小さな規模の工場で、婦人や子供を含めて僅か2人か3人の「下級職人」を賃金形式で雇い入れ(その意味で「親方職人」でしたが)「手づくり作業」によって協同しながら毛糸を紡いだり、毛織物を織ったりする生産形態をとっていました。
 したがって、このような「中産的生産者層」(小さな「親方職人」)の人々と、「親方職人」をとりまく「下級職人」群が行なっていた生産形態のことを併せて「マニュファクチャー」(MANUFACTURE)という同じ名称で呼んでいます。雇う側の「小さな親方職人」と雇われる側の「下級職人」との関係は、農村の地主と農奴、ギルドの親方職人と徒弟のように身分の拘束関係はなく、労力の提供の代償として賃金を受け取る関係で結ばれていました。やがて17世紀から18世紀にかけて彼等は産業資本として本格的な工場制生産に成長してゆき、「資本家」と「賃金労働者」の二極をつくりました。当時強力な金融支配力を持っていた問屋や高利貸商業資本の拘束を脱しようとして、勤労による生産利益の向上につとめ、自由独立の気風に溢れた、規模は小さくともすぐれた工業家集団だったのです。

資料: 大塚久雄著作集第二巻「近代欧州経済史序説」および
第五巻「資本主義社会の形成2.」(岩波書店発行)
  大塚久雄著「歴史と現代」(朝日選書143朝日新聞社発行)
資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)





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