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「生産」と「消費」のネットワーク

藤井一義 (マネジメント・コンサルティング取締役)

6.東西両ルートに牧羊事業を求めて


 15世紀末、ほとんど同時に発見された東西両ルートですが、「新しい世界」に牧羊事業を求めていた羊とヨーロッパ各国の人々に対して、それぞれ違った影響を与えることになりました。

(1)新大陸アメリカヘの西方ルート


 このルートはいわばヨーロッパからの「直行ルート」でしたから、どこの港からでも西の方角をとれば新大陸のどこかの沿岸にたどりつける機会がありました。また気候も温暖そうだし先住民族から大した抵抗も受けずに土地が占有できて「牧用地の確保」の野望を満たせる可能性が分かってくると、各国は我先にと「新大陸アメリカ」への「植民ラッシュ」を始めました。1519年スペイン王朝はマゼランを派遣して、コロンブスが既に北東部の一部を発見していた南米大陸の最南端を確認し、海峡を通過することによって大西洋と太平洋とがつながっていることを発見しました。彼はさらに太平洋の荒波を越えてフイリッピンに達し、インド洋からアフリカ大陸南端の喜望峰を迂回してスペイン本国に帰る世界一周の航路を開拓したのです。コロンブスが西方ルートを通って西インド諸島に上陸してから、僅か半世紀足らずの間に、南北アメリカ大陸の周囲が探検され、至るところに牧羊事業建設の機会がもたらされることになりました。

(2)東インド諸国への東方ルート


 東方ルートは西方ルートにくらべて「植民ラッシュ」を起こすにはちょっと違った意味を持っていました。中世以来東インド諸国との交流が頻繁に行なわれていたために、ヨーロッパの人々はオリエントに対する「あこがれ」を伝説的に持ち続けていました。さらに彼等は、赤道を越えてはるか南方には"未知の大陸"があり、そこに到達するには船も人も一瞬のうちに燃え尽くす焦炎の熱帯海域を航行しなければならない、という幻想を持っていました。しかしディアスやヴァスコ・ダ・ガマ等の探検家がアフリカ大陸の南端を迂回してインドに到達したことで、東インド貿易は俄然活気を帯びましたが、マゼランが西方ルートで世界一周を成功させたことによって、かえって"未知の大陸"は一層遠く南海の果てに追いやられてしまいました。その結果、1770年イギリス人のジェイムス・クックによる豪州大陸の発見上陸まで、約3世紀間も豪州大陸は羊と私達にとって迷信的な幻想の中に閉じ込められていたのです。したがって、ヨーロッパ諸国は東方ルートを通って東インドから極東まで商圏の拡大に全力を挙げることになり、羊と私達の緊急課題であった牧羊事業の建設は、南アフリカだけに展開されることになりました。

7.新しい世界に展開された牧羊事業


(1)北米・中米


 1493年コロンブスが入植者と羊を連れて2回目の新大陸渡航を行なったのが、南北アメリカにおける最初の牧羊事業でした。スペインはキューバとエスパニョーラ(ドミニカ)を根拠地にして、中南部やパナマ、メキシコに向かって西進したあと、現地の土着羊との交配を行ないながら牧場を開き、16世紀半ば頃には北部に前進してニューメキシコの牧羊事業を盛り上げました。17世紀から18世紀にかけてインディアンの布教目的で入植した宣教団が食料と衣料兼用の羊で事業を拡張し、今日テキサス一帯の国産牧羊事業の基礎をつくりました。イギリスは1607年バージニアに植民地を開き北東部を中心に英国種系統の羊を導入しました。彼等が「スペイン・メリノ種」を輸入したのは、ようやく19世紀に入った直後からで、新大陸アメリカには約3世紀以上も「メリノ種」の羊が上陸しなかったことになるわけですが、スペイン王朝もイギリス王朝もなかなか輸出許可をおろさなかったためといわれています。しかし合衆国の独立宣言が行なわれた後、19世紀を過ぎてから、彼等の努力が実り始め、次第に「スペイン・メリノ種」が輸入されるようになりました。既にその頃彼等の牧羊事業は北東部から中西部中心に移動していましたが、急速にメリノ種産出国として発展を遂げた結果、南アフリカや豪州に羊を輸出するまで牧羊事業は成功を収めたのです。このように新大陸アメリカに牧羊事業が開設されて以来、実に4世紀にわたってイギリス本国をはじめヨーロッパ諸国に輸出される商品の中で、ウールは綿花や鉱産物とともに非常に重要な位置を占めてきました。その意味で新大陸アメリカは「綜画運動」以来の目的である「牧羊事業の海外生産」の意義を十二分に果たしたと考えることができます。また新大陸発見からすぐに開始された綿花栽培とともに牧羊事業がアメリカ合衆団の国民生産に大きく貢献し、やがて独立のための経済的基盤の中にしっかりと組み入れられた歴史的な事実を見ることが出来るわけです。

(2)南米


 16世紀の半ば、スペイン征服軍が大西洋を西進して南米侵略を始めた頃、ペルー経由でスペインの羊が南米大陸に初めて持ち込まれました。しかしこれらの羊は遠征軍の食肉用が目的でしたから本当の意味で牧羊が始まったのは、18世紀に入ってウルグアイにスペイン人が、フランス・アメリカ・豪州等から「メリノ種」を輸入したのが最初だといわれています。1813年「スペイン・メリノ種」が英国人の手によってブエノスアイレス州に持ち込まれて以来、アルゼンチンでも牧羊が始まりました。しかし牧草と気候に恵まれたブエノスアイレス州では羊よりも牛馬の飼育が主目的となり、牧羊業は中南部の広大なパタゴニアのパンパに展開されてゆき、南米最南端の「ティエラ・デル・フェゴ(炎の大地)島」にまで拡大されています。南米で羊とイギリス人の足跡を示す典型的な場所は、何と言っても「フォークランド諸島」です。「フォークランド諸島」は大西洋の南方にあり、南アメリカ大陸からも遥かに離れた絶海の孤島群ですが、以前領土権をめぐってイギリスとアルゼンチンとの間で紛争があったことで有名です。1835年イギリス人によって牧羊が開始されて以来、孤島群全体が牧羊業だけで生計を立てて今日に至っているのですが、ここでは草木も大きく成長できないくらい年中偏西風が強く吹いて、極地性気候のため夏でも気温が上がりませんから、真っ白い非常に繊度の細い高級雑種ウールが生産されており、全量イギリス本国へ出荷されています。

(3)南アフリカ


 1652年以来、アフリカ南端に入植していたオランダは、王家の命令で牧羊地の建設を試みてから長い歳月を過ぎていましたが、なかなか期待通りに成功できませんでした。オランダに1世紀以上も遅れて1795年イギリス軍が侵入してきて、オランダ領当時から僅かに残っていた「メリノ種」の羊を軸に黒人労働力を使い牧場を建設しながら、次第に内陸部に向かって進んでゆきました。後年、豪州「メリノ種」との交配によって、南阿特有のソフトでしかも「歩留」(ぶどまり)の良い特性をもった「南阿メリノ種」を作りあげて今日に及んでいますが、その基礎はこの時に作られたのです。 (註3参照)

(4)豪州


 1797年オランダによって既に開発されていた「メリノ種」の種羊13頭が、イギリス海軍の軍艦に乗せられてシドニー港に到着し、この種羊を購入した海軍士官が豪州で最初に牧羊事業をはじめました。それ以来イギリスの入植者達は、本国から送られてくる流刑囚の労力を利用して牧羊業を次第に内陸部の方に展開してゆきました。植物の影を見ることもごく少ない内陸部の砂漠地帯や南極に近い孤島で寒冷な気候風土にさらされながら、彼等は営々として牧場建設を進めてゆきました。そのうえさらに、毎シーズン刈り取ったウールを内陸部の牧場から港に運搬し機帆船に乗せて、はるばる喜望峰を迂回してロンドンまで運んで販売し、ヨーロッパからの帰りには品種改良のために良質の種羊を購入して再び機帆船に乗せて自分の牧場まで連れて帰るのが通例でした。今日から見れば、本当に気の遠くなりそうな忍耐と努力の旅が長い間毎年必ず繰り返されて、世界の「メリノ種」ウール生産の約半分が豪州で生産されるようになりました。そして、豪州に引き続いて開発されたニュージーランドとともに、北半球のウール製造加工業者にとっては絶対欠くことの出来ない「世界のウール資源国」となったのです。

(5)ニュージーランド


 豪州は南阿から連れてこられた「メリノ種」の種羊が最初の羊でしたが、ニュージーランドは、1814年イギリス本土からキリスト教宣教師団が「英国種」の羊をつれて上陸したのが牧羊業のはじまりです。豪州と違ってニュージーランドは全島が牧草に恵まれていて、1834年「豪州メリノ種」を取り入れて以来、南北両島に拡がってゆきました。 しかしニュージーランド牧羊業は衣料用と食肉用を兼用する「クロスブレッド(雑種)」の羊を飼育することが主な目的になっていて、1882年イギリス本土に食肉が輸出されて以来今日に及んでいます。ニュージーランドで飼育されている「クロスブレッド(雑種)」の羊は、イギリス本土から連れてきた「英国種」と「豪州メリノ種」とが交配されて出来た血統種です。この「クロスブレッド(雑種)」から刈り取ったウールは、メリノ種よりも繊度が太く長い毛足をもっているしっかりしたウールなので、一般的に「カーペット用」として使用されるのが特長です。豪州が「メリノ種ウール」の生産を代表する国であるなら、ニュージーランドは「雑種ウール」の生産を代表する国といっても良いくらいです。

8.南北に分かれたウールと私たちの関係


 東西両ルートを辿った羊と私達の遍歴は、結局南半球を中心にした牧羊事業の展開によって目的を果たしました。しかし、羊が北半球から帆船に載せられて遠路はるばる南半球に運ばれて来て以来、ウールの生産と消費との関係は全く分立した格好になってしまいました。北半球でかつては農村や町の周囲で羊が飼育され、刈り取られたウールがそのまま近くの工場に運ばれて、毛糸や毛織物になってゆくのが、私達の日常生活のすぐ側で行なわれていた当時の羊やウールに対する「思い入れ」は、どんどん失われて遠ざかってゆかざるを得ませんでした。一方、南半球では、羊も私達も長い船旅の疲れをいやす暇もなく、牧羊地を建設し、連れてきた羊を原野に放つと、すぐに羊の頭数を増やし、真っ白な細くてしなやかなウールを出来るだけたくさん刈り取ることや、ウールをどうやって有利に売り捌くか等の問題に頭を悩まさざるを得ませんでした。このようにして、ウールの生産地から見たヨーロッパと、ヨーロッパから見たウールの生産地とは、いままで経験してきたようなウールと私達との関係とはすっかり違ったものになって、その意味でも「新しいウールの世界」が始まることになりました。今日、南半球の全大陸に広がっている「ウールの生産供給市場」と北半球全地域で展開されている「ウールの製造消費市場」が、「ネットワーク」として機能的に活動出来る基礎を「綜画運動」以来約4世紀にわたって作り上げながら、羊とともに始まった私達の長い旅はとうとう終りを告げたのです。

(筆者は元日本毛織(株)取締役、元(株)ナカヒロ代表取締役社長です)

註2:梳毛織物
 毛織物の製造方法には「梳毛(そもう)式」と「紡毛(ぼうもう)式」の2種類があります。梳毛織物は梳毛式紡績で紡糸された細い毛糸(梳毛糸)を使って製織した薄手の織物生地で、一般に「ウーステッド」(WORSTED)と呼んでいますが、紳士用や婦人用のスーツ生地として、広く使われています。梳毛織物に対して紡毛織物は紡毛紡績で紡糸された比較的太い毛糸(紡毛糸)を使って製織した厚手の織物生地で、オーバー生地や毛布等に使われます。このように製織までの製造方法は「梳毛式」と「紡毛式」とに区別されますが、毛織物に製織されてから以降は、毛織物の最終用途にしたがって染色、整理、仕上げの製造方法が複雑にそしてデリケートに組み合わされた作業が行なわれます。

註3:歩留(ぶどまり)
 使用した原材料に対する製品の出来上がり比率のことです。ウールの加工工程では、脂付(あぶらつき)羊毛を洗浄する工程の「洗い上げ歩留」、洗い上げ羊毛を梳(す)いて「トップ」と呼ぶ篠(しの)状のウールにする工程の「梳毛歩留」等、工程ごとに「歩留」による品質や原価の管理を行なっています。

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)




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