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Ⅲ.ウールを製造加工する人々(2)

藤井一義 (マネジメント・コンサルティング取締役)

(1)羊毛輸出から毛織物輸出へ(続)

 国内市場対策に続いて1407年には毛織物輸出を独占的に扱う毛織物輸出商組合「マーチャント・アドベンチャラーズ組合」(Company of Merchant Adventurers)が組織されたのをはじめ、16世紀から17世紀にかけて毛織物工業の急速な発達と毛織物輸出への転換の成功とに呼応しながら、次々にカンパニーが作られてゆきます。 (註1カンパニー参照)
 結局、既成の商人層とギルドとは全然離れた市場で新興商人層をメンバーとする新しいカンパニーの活躍を期待して、毛織物の国内市場を活性化しその補完として海外市場を広く確保することによって、毛織物工業を出来るだけ早く成長させようとする国内産業保護のための重商主義政策だったのです。

 このようにしてイギリス王朝は新興商人層とカンパニーの活躍による世界貿易システムを実現しながら毛織物工業を中軸においた国家経済力の増強策を着々と実行してゆきましたが、現実にその成果は非常に早いスピードであがってゆきました。しかしながらその成果とは裏腹に一連の重商主義政策を取らなければならなかったもう一つの重要な背景事情が王朝の中に秘かに存在していました。

(2)国内市場の奪回

 14世紀半ば頃までイギリスを代表する最大の国際商品は、言うまでもなく羊毛原料で、羊毛商組合が独占している質易事業でした。ところが輸出取引額の内容を見ると、約3分の2近くが北部イタリア、北部ドイツのハンザ同盟、あるいはフランダース等の外国資本の手に握られており、イギリス羊毛商の占めている実質の取引シェアや利益配分は全く話にならないほど僅かだったので、イギリスを代表する事業と言いながら意外に思われるほど外国商業資本による寡占化が進んでいたのです。

 しかもこれらの外国商業資本は随分古くからイギリス国内市場の中で羊毛原料や毛織物(未仕上げ反)の顧客業者として重要な地位を占めていたばかりでなく、その地位を利用して金融業者としてイギリス王朝の財政の奥深く食い込んでしまっていました。つまり関税の前払いとか高利貸付けによって王室はもちろん貴族階級の懐の中につけ込んで莫大な金額にのぼる債権者となり、それと絡んで国内市場の中でいろいろな特権をひろげていった結果、国内の商人以上に優位に立った活動を行っていたのです。

 ルネッサンスとともにヨーロッパの代表都市として繁栄していたフィレンツェにおいて市政を専横的に牛耳っていた商人ギルドが、遠く離れた北海のブリテン島にまでこのような侵蝕の手を伸ばしていたことは、いかに北部イタリアの高利貸し資本の勢力が凄じいものであったかを語っています。

 したがって、たとえ羊毛原料の輸出がイギリスを代表する伝統的事業であっても出来る限り抑制して、先ず外国商業資本の権益を極力縮小させいずれ国外に追い返してしまうことによって国内市場を自分達の手元に奪回しようと言うのが、何をおいても王朝や政府が実施しなければならない課題でした。

 たしかに羊毛原料輸出を抑制することによって外国商業資本が排除され国内市場はイギリスの手元に戻るかもしれません。しかし国家財政から見れば羊毛原料輸出が減少する分だけ今までの関税収入が減ってしまう訳ですから先ず初めに羊毛原料より付加価値の高い毛織物の国内取引をイギリス人の手によって増加させ、さらに狭くて未だ熟成していない国内市場を補完するために毛織物の輸出市場を拡大することによって関税総収入を増額させ国家経済力を高めてゆこうとした訳です。何しろ当時王朝を支える収入源は地代と関税のふたつに限られていたからです。

(3)政策の成果

 先ず羊毛原料輸出の禁止的制限によって長い間羊毛原料の重要な顧客市場であった南ネーザーランドをはじめとする西ヨーロッパ各国の毛織物工業は非常に大きな打撃を受け、一時的でしたが羊毛原料不足の混乱状態に陥りました。一方、当時既に国民的規模に達しようとしていたイギリスの毛織物工業の発展によって毛織物の生産量は急速にそして大幅に増加してゆきましたから、毛織物の輸出市場は着々と拡大されてゆきました。特に国内市場から外国商業資本を排除した後組織された「マーチャント・アドベンチャラーズ組合」に対して毛織物輸出の独占権が与えられましたので、海外市場に向かって活動範囲はますます拡張しながら転換政策は成功の道を一直線に走り出すことが出来たのです。

 政策転換の一番肝心の狙いであり、国家財政の主要収入源であった関税総額は14世紀末噴から毛織物輸出の進展に歩調を合わせて劇的に増加してゆきました。羊毛原料の輸出税は抑制するために非常に重く、毛織物の輸出税は促進するためにうんと軽く課税されることになっていましたが、14世紀半ば頃と15世紀半ば頃の輸出税収入総額を比較しますと、羊毛原料輸出量は急速に減退し、そのかわりに毛織物輪出量が激増した結果、毛織物輸出税総額が圧倒的に羊毛輸出税総額を上回っている事情が、当時刊行された政府の関税統計の中に明確に示されています。

 そしてこの統計数字自身が政策転換に賭けたイギリス王朝の悲願とも言える外国商業資本の撤退完了を如実に物語っているのです。

 なおこのようなイギリスの毛織物貿易の経緯をフィレンツェに繁栄をもたらした毛織物の仕上げ加工貿易に比較して考えますと、イタリアの商人ギルドはどこの国からでもいいから毛織物未仕上げ反を出来るだけ大量に輸入し工匠ギルドを使って『美しくて艶のある毛織物』に仕上げたのですが、イギリスは羊毛原料輸出に対する禁止的重税によって外国の毛織物工業の競争力を抑制しながら、自国産の毛織物を出来るだけ大量に製造し輸出しようとしたところに国内産業保護を目的とした重商主義政策の典型的な成功例を見ることが出来ます。

(4)高利貸し資本に対する国民感情

 王朝を先頭にして貴族階級に寄生していた外国高利貸し資本の手が、地方の中小貴族や一般庶民にまで及んで来るのを眼の前に見ると、これらの外国商人達の活動や彼等の高利貸し付けを排撃しようとする国民感情が、商人ならずとも一般庶民の間に起こるのを止めることは出来ませんでした。

 特に高利貸し付けを職業とする外国商人に対するイギリスー般国民の感情は他国と適って最も忌み嫌うところでした。当時イギリスでは利子を取ることや金銭貸し付けを職業とすることを宗教上の理由からと法令によって禁止していることもあって、国内に寄生している外国商業資本に対する憎悪に近い国民感情が何とかして羊毛原料や毛織物の国内取引をイギリス人自身のものに取り戻そうとするナショナリズム的な経済行為の精神的な支柱になっていたことは明白です。

 したがって貿易業務に専念して海外市場に向かって進出を試みることに彼等は並々ならぬ努力を重ね、さらに高利貸し資本としての行動を終始自制することにつとめたのがイギリス商業資本の特質だと言っても過言ではありません。 (註1:カンパニー)

3.イギリス商業資本の活動

 14世紀半ば頃からイギリス王朝が次から次へと採用していった重商主義政策がタイムリーにしかも完璧に実現できた理由は、政策自身が優れて戦略的であったことから政策の執行者もまた優れた実行能力を持っていたからだと思われます。

 1:しかし偶然とは言えイギリス王朝の採用した転換方針が、実に絶妙のタイミングで、新大陸と東インド新航路発見に先立つ約半世紀前に完了していたことが先ず第一の理由に挙げられます。それは転換方針の担い手となった多くのカンパニー組織のもとで活動した毛織物商(draper)達が、後発者でありながら他国商人に比較してごく短期間に毛織物取引の実力を修練できて先ず14世紀中に国内市場に寄生していた外国商業資本を撃退してしまったことです。

 2:さらに成功の裏付けとなった事情はイギリスの毛織物工業が14世紀半ば頃から15世紀半ば頃までの約1世紀の間に海外市場で西ヨーロッパ先進国を充分圧倒できるだけ良質で廉価な毛織物を大量に製造できる能力を整えるまでに急成長できたこと、の2点です。

 タイミングの点を別にしてこの2点について追及しますと、カンパニー組織は従来から羊毛原料輸出を行なってきた羊毛商組合のギルド組織をそのまま踏襲しましたのでイギリスもイタリアのような西ヨーロッパの毛織物に関連した商人ギルドと比較して組織そのものは何の相違も認められません。それどころかむしろ毛織物輸出にしても毛織物工業にしても西ヨーロッパでは後発国で、立地条件や消費人口等競争上のハンディキャップを随分たくさん抱えていた筈だったのに僅か1世紀かそこらの間に貿易商人と毛織物製造職人が揃って何百年も続けてきた他国のレベルまで急成長を遂げたことは非常に驚異的な出来事だったと思われます。

 したがって、この転換政策がタイムリーに成功した真実の理由は、カンパニーを構成して世界貿易史上目覚ましい活躍を行なった「毛織物商」(draper)と呼ばれた新興商人層の人々と実際にウールを利用して毛織物の製造加工に携わった人々の考え方や行動様式の中に求めざるを得ません。必ずそこにはイギリス人でなければ成し遂げられなかった独特の国民的な特性が潜んでいる筈です。

 そこで先ず「毛織物商」ないし「毛織輸出商」と呼ばれた商人達の辿った足跡を検討してみたいと思います。

(1)「毛織物商」をめぐる背景事情

 13世紀半ば頃から14世紀にかけて西ヨーロッパ全体は未だ封建制度の中で長い眠りを続けていましたが、イギリスでは大陸の各国よりも比較的早くから封建制土地制度や身分(農奴)制度が徐々に崩壊していました。

 その理由として考えられる事情は、農業とともに古くから行なわれてきた牧羊業によってウール生産が増加するにしたがって農民(農奴)の貨幣収入が増えてゆき懐が暖かくなる一方で、封建制土地制度の下で農民の義務として定められていた「地代労働」が次第に金納化の方向を辿っていました。さらにこの金納化が進めば進むほど農民達は封建体制下の身分的拘束や役務労働の義務から解放されてゆく傾向が農村に広がり始めていました。

 やがて14世紀半ば頃には、イングランドでは既に農村を中心に毛織物工業が広範囲にしかも根強く自生していましたので、ちょうど羊毛原料輸出から毛織物輸出への政策転換が行なわれ毛織物の製造加工は「農民の副業」として儲かる仕事だと言う考えが定着している情況だったのです。

 したがって14世紀に入ってからは中央都市よりもむしろ農村を土台にして商業取引や手工業も次第に活気を帯びながら貨幣化が進み商品流通が拡大してゆくようになり、一般庶民の中にはそろそろ新しい時代の「息吹き」を感じる者も出始めていたのです。

(2)「毛織物商」の生い立ち

 「毛織物商」と言われる商人達の出身は羊毛商の一部あるいは織物の仕上げ工職人の上層部とか言われていますが、長い間続いてきた封建制度の色々な束縛から脱出して、多少でも新しい『毛織物の時代』に対して希望をもちながら転職していったものと推定します。したがって羊毛商組合の消極的な活動とはなんらかの形で一線を画したい思いで、初めは外国商業資本に対抗しようと決意したに相違ありません。利潤追求のためには宗教的規範や社会的慣例に反した行動でも敢えて辞さない外国高利貸し資本のしつこい寄生的な態度や侵蝕に対して反感を抱いたからこそ、はっきりライバル意識をもって外国資本排斥の先頭に立つことが出来たと思われます。

註1)カンパニー:ギルド(同職組合または同業組合)と同義語として使用しています。16世紀から18世紀にかけてオランダ、イギリス、スペイン、フランスなどでは東方貿易やアメリカ新大陸貿易のために設立されています。その後紆余曲折を経て株式企業に発展しました。

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)




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