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Ⅲウールを製造加工する人々(6)

(2:イギリス毛織物工業と商業革命)
藤井一義 (マネジメント・コンサルティング取締役)

1:イギリス羊毛工業の基本的性格


(前号の続き)

(5)毛織物マニュファクチャーの形成

 14世紀に入る頃になると、都市では既にギルド組織の形をとって職人の分業体制が割合はっきりした姿で行なわれていました。しかし農村では半農半工の副業的な形をとりながらまだ家庭内だけの労働で毛糸を紡糸したり毛織物を製織する状態でした。それでも紡糸は紡糸の職場をもち織布は織機を置いて職場を作っていましたから、いわゆる「マニュファクチャー」のごく初期の生産体制が出来上がっていたと言えます。
 東インド貿易のために羊毛商や毛織物商達が今まで以上に毛織物生産の増量を要求してくるようになると、それまでのような家庭内労働だけの生産規模では不足することになり、そこで先ず選毛や紡毛作業を行なう家族労働者を一軒二軒と増やすか、あるいは他家の婦女子を自分の家庭に呼び集めて作業をさせ毛糸の生産量を増加することにしました。さらに織機を増台しようとしますが、出来れば熟練した織布工(雇い職人)と補助労働者(徒弟)を賃金で雇い入れ自分の敷地内の職場家屋で本人も一緒に協同して織布作業を行なうようになりました。
 都市に住むギルド組織の織布職人の場合「親方−雇い職人−従弟」の三段階制度をとり、一定の年限を経過しなければ親方にまで上昇できない厳格な身分制度による職制をかたくなに守りながら生産を行っていましたから、農村の織布業者が例え同じ名称の職制をとっているようでも労働作業をする職人達の身分上での自由度はまったく違う内容のものでした。

15世紀16世紀頃の農村における織布業者の生産形態の重要な点は、
  1. 紡糸、織布業者は必ず半農半工の形態をとっていること。(この形態は17世紀までずっと続くことになります)
  2. 紡糸作業をする他家の家族労働者や出来るだけ熟練した織布工(雇い職人)あるいは補助労働者(徒弟)を賃金形式で雇う関係が出来ていること。
  3. 選毛、紡糸、織布といった分業化された工程別の作業員達を一カ所に集め協同して同じ工程作業を行なういわゆる「分業による協業」が行なわれていること、です。

 したがってこの生産形態はもう既に家内生産のレベルをこえて小規模ですが産業資本による工業生産の経営体すなわち「マニュファクチャー」と呼ばれる経営体に発展しているわけです。

 随分古くからイギリスの羊毛工業が積み重ねてきた基本的な性格がますます積極的に商品流通(貨幣経済)を促進してゆく中で、なんどとなく遭遇する歴史的な社会的な変動によってどんな影響を受けどのような変容を遂げてゆくことになるかについて次項で考えてみたいと思います。

2:イギリス毛織物工業と商業革命


 14世紀半ば頃からそれまで羊毛生産だけに眼られていた国際的な評価は、イギリス王朝の採用した保護主義政策と羊毛商や毛織物商達の活躍によって毛織物生産がクローズアップされてきました。15世紀から16世紀にかけてイギリス商業資本は「質の良いそして廉価な」毛織物を携えていよいよ世界貿易の表舞台に立つ運命を迎えることになります。
 16世紀は産業革命の「はしり」と言ってもよいくらいヨーロッパではさまぎまな政治的社会的変革が起こった時期です。その中でもイギリス毛織物工業にとって最も関係の深い変革は先ず第一に海外から迫ってきた商業革命で世界の貿易市場の「枠組み」を“新しい世界”に向かって根こそぎ組み替える変革でした。したがってイギリスの牧羊業にとっても毛織物工業にとっても外来の避けて通れない変革であったと言えます。
 第二にあげられる綜画運動はイギリスの毛織物工業自身の変革問題として農業とともに牧羊業や毛織物工業の存立する基盤となっている社会構造の深層から湧き起こってきた国内の変革であったと言えます。
 さらにこの両方の変革はそれぞれ別個に発生してはいますが、14世紀半ば頃から急速に成長してきたイギリスの毛織物工業を内外から挟みつけるように、ほとんど同時期と言ってよいくらい相前後して襲ってきたことに対して非常に劇的な感じすら覚えます。
 先ず最初にようやく世界市場に向かって発進し始めた新進気鋭のイギリス商業資本とその背後に生産基盤として彼等の活躍を支えてきた毛織物工業にとって商業革命はどのような問題を投げかけどのような影響をもたらしたかを検討したいと思います。
 
(註1:商業革命参照)

(1):商業革命の意義


 東インド新航路も新大陸も発見の動機となった理由の一つには当時のヨーロッパの人々が極東にあると信じていた黄金郷にたどり着こうとする幻想のせいだと伝えられていますが、現実の問題としては毛織物の販路を何とかして海外市場に向かって拡大したい願望から始まりました。
 15世紀の終る頃ようやくスペイン、ポルトガルが続けてこの願望を実現し東インドと西インド(アメリカ大陸)の両ルートが連結されたことによってヨーロッパにもたらされたのはたしかに毛織物の販路だったのですが、同時に彼等は商業革命と言う厄介なものも抱え込むことになりました。
 商業革命は東西両インドルートが連結されたことによってヨーロッパ内に続いてきた既存の貿易の枠組みを一挙に変革してしまいました。つまり毛織物工業の盛衰によって貿易の主人公も商業取引のルートも変わってしまうことになったのです。
 さらに商業革命はヨーロッパ各国が好むと好まざるとに関わらず価格革命による物価上昇とインフレーションを与えました。つまりその頃既に先進国における国家経済力の源泉となっていた毛織物工業はこの変革の波を乗り切らなければ自滅してしまうおそれが生じ、したがって国家の浮沈にかかわってくることになったのです。

(2):イギリスから見た東インド貿易と新大陸貿易(西インド貿易)


 商業革命はイギリスの人々に対して東インド貿易と新大陸貿易の性格の差を浮き彫りにしました。
 東インド貿易の基本性格はヨーロッパ側から銀を供給し、その代償に原産地では非常に安く入手できるがヨーロッパに持ち帰れば法外な高い値段で売れる奢侈商品(例えば胡椒とか香辛料・絹織物など)を漁るように買い付ける投機的な性質を帯びた仲介貿易でした。いつはじまったか起源も分からない東インド貿易は産業革命期の頃までどこの国の誰が覇権を握ろうともこの基本性格を変えずに続けます。
 これに対して新大陸貿易は、未開発で人口も非常に少ない新大陸が求める日用必需品の毛織物と金物のような国内工業が生産した製品を供給し、その代償として暴力や奴隷労働等によって得たコストが無いのに等しい銀や金をヨーロッパに搬入する基本性格をずっと長く続けることになります。
 このように東インド貿易と新大陸貿易とは銀と毛織物によって緊密に連結される関係をもっていますが、同時に両者はまったく適った性格で本質的には対立する商業貿易であると言う考え方に基づいてイギリス王朝をはじめカンパニーの商人達は革命以降の活動を展開しています。
 つまり新大陸は毛織物工業や金属工業のような輸出工業製品の販売市場になっている意味でイギリスの国内産業にとって“有益な”商業貿易であると考える価値基準を重商主義政策の根幹に組み入れることにしたのです。
 17世紀以降新大陸や南半球においてイギリスが展開する経営資源(例えば羊毛、綿花等のプランテーション)の開発も、本国の輸出工業にとって有益であるかどうかを基準にして採択してゆくことになりますが、これも重商主義政策と同じ価値基準で世界貿易システムを作ろうとする戦略構想から出てきたものと考えることが出来ます。

(3):毛織物マニュファクチャーと商業革命


 商業革命によって毛織物の販路が飛躍的に拡大したことと同時にヨーロッパ全土に広がった価格革命による物価上昇やインフレーションの波に対処することが必要になりました。しかしながらマーチャント・アドベンチャラーズ組合をはじめ海外に雄飛しようと待ち構えていたカンパニー商業資本とその背後にいた毛織物マニュファクチャーにとっては競争国を制圧するためにかえってタイミングの良い機会が与えられたことになりました。
 さらにこれらの国々は原料羊毛の輸入をほとんどイギリスに仰いでいましたから、この点から見ても原料コストのハンディキャップを背負っていた上、羊毛原料から毛織物まで国内で一貫した生産形態をとってコストをコントロールできるイギリスの立場と比較してどうしても太刀打ちできない不利な条件下に置かれていたわけです。
 銀さえ獲得できればあるいは銀さえ貯め込んでおけば毛織物を安く仕入れて胡椒で投機的な儲けが出来るとこれらの国々の前期的商人達は一途に思い込んでいたのです。
 これに反してイギリスの場合は羊毛や毛織物の需要が急激に増加してゆく勢いを受け止めて毛織物マニュファクチャーを都市、農村を問わず全国的規模に展開して生産力を拡大し生産性を上げることによって商業革命の波を乗り切ろうとしました。
 16世紀に入ると毛織物マニュファクチャーの前面にはいわゆる都市の「織元」と呼ばれる商業資本が姿を現してきました。
 彼等は都市に住んで毛織物商達と親密にネットワークを組んだり事実上毛織物商を営んでいた商人で、通称「織元」(クロージャー)と呼ばれていました。彼等は生産行為を全然行なわず毛織物マニュファクチャーや商品生産者に対して原料羊毛や原糸を前貸手配することから毛織物の国内や輸出販売までを管理する役割をもった問屋商業資本そのものだったのです。
 16世紀半ば以降イギリスにも徐々にインフレーションの波が押し寄せてきますが、都市の織元は問屋制前貸資本としてますます支配力を広めてゆく一方、その支配下で中産的生産者層はマニュファクチャーの生産力(労働要具と労働人員)の拡大と生産性の向上に努力して自営独立の地盤を固めながらイングラント一帯に根強く展開してゆきました。織元(商業資本)と毛織物マニュファクチャー(産業資本)はこのように同時並行して相互に重なりあうような形で繁栄していったのです。

(4):政治社会への影響


 16世紀後半以降商業革命の影響は既にイングランド全体を覆い尽くそうとして進行中の綜画運動の上に重なるように羊毛生産者や毛織物工業の存立基盤となっている社会機構を揺るがせることになります。そしてその結果政治体制にまで波及し遂に封建制度は崩壊してしまうのです。
 商業革命がイギリスに好機と販路をもたらして羊毛輸出と毛織物輸出が急激に膨れ上がった結宋厖大な関税収入が王朝の財政を支える重要な柱として成長しました。当時絶対王制による統一国家の実現を目指していた王朝にとってこの財政の柱は地代以上に物質的に有力な“よりどころ”となって封建領主達に対して立ち向かうことが出来たのです。
 ようやく商業革命や貨幣経済の展開とともに侵入してきたインフレーションによる生産費の上昇と労働力不足の「挟み撃ち」にあって封建制度の根幹であった荘園制度の運営が極度の不振に陥ってしまいました。逆に自営農民や農村で毛織物工業を営む中産的生産者層の経済力が強くなり、封建領主の勢力が大いにそがれてしまったため、王朝はその機に乗じ財力にものを言わせていろいろな術策を使って封建領主達を追い詰めてゆきました。その一方で綜画運動の展開とともにますます経済力を強めた自営農民層、近代的地主、中産的生産者層の上層部を政治的背景に組み入れながら次第に封建制度の打破に向かって進み始めたのです。

註1:商業革命;羊毛講座1「国家経済を左右した毛織物貿易」の中で商業革命の歴史的経過を説明していますのでご参照下さい。


資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)






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