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Ⅲウールを製造加工する人々(7)

(3:イギリス毛織物工業と綜画運動)
藤井一義 (マネジメント・コンサルティング取締役)

(1):綜画運動のあらまし

 綜画運動はイギリスの毛織物工業が急速に発達して国民的産業の基軸になりつつあった15世紀後半から発生しはじめ、16世紀半ば頃最盛期に達しました。その後18世紀半ば頃まで断続的に起こりましたが、それまでを第一次綜画運動と呼んでいます。
 第二次綜画運動は農業の大型経営化を目的に18世紀半ばから19世紀にかけて展開されましたが、運動の当初から見れば実に5世紀の長期にわたるイギリス経済変革の連続劇と言うことができます。
 毛織物工業にとって最も関係の深い第一次綜画運動は先ずイングランド東南部からスタートし、ミッドランドと呼ばれる中西部で最盛期を迎え、更に運動は螺旋状に展開されて、イングランド北部のヨークシャー、ランカシャー地域に到達しました。
 富裕な自営農民や権力者によって強引に保有地を綜画され農村を追放された膨大な貧窮農民は結局毛織物マニュファクチュアーに吸収され雇い主となる中産的生産者層(下層自営農民や都市、農村の小親方達)と賃金契約によって労働する関係をもつことになりました。両者がこのような全く新しい社会関係の下で毛織物の工業生産を行いながら色々な形で近代資本主義を形成していった過程がこの運動の示す本質的な意味合いであろうと思われます。 綜画運動の最中毛織物マニュファクチャーの中で一生懸命毛織物を生産していた中産的生産者層や貧窮農民が様々な苦闘の経過や運動のもたらした悲劇的な影響をどの様に受け止めて行動したかを追求したいと思います。

(2):大綜画と小綜画−土地の面から見た綜画運動−


 イングランド東南部から中西部にわたって行われた綜画運動は荘風制度に特有の分散化されしかも農村共同体的に使用されてきた放牧地や農耕地を集中統一し、できるだけ少数の賃金労働者で羊毛を効率的に生産してゆこうとするものでした。
 綜画する面積の規模から見てこの運動を「大綜画」と呼ぶとすれば、対照的な形態として17世紀から18世紀にかけてイングランド北部で毛織物マニュファクチャーを集約的に建設する為比較的小面積を綜画した「小綜画」があげられます。
「小綜画」は一区画あたり2−3エーカーから6−7エーカー程度の土地が2−3区画ほど集められ、「大綜画」の進行に伴って、保有地から離散した農民層(農奴層)やギルド組織をとび出した下層職人達をこの区画内の小規模マニュファクチャーの中に賃金労働者として吸収する形で進められました。
 「小綜画」の中はごく狭い面積の農耕地、織布をはじめ諸工程の職場とそれをめぐる流水溝とともに労働者達の小住宅等が密集して作られた工業部落でしたから、広大な牧羊地の少数の賃金労働者に比較して相当多数の賃金労働者が生活できたことになります。
 その上「小綜画」の中のマニュファクチャーがどんどん賃金労働者を吸収して生産規模を拡大し軒数を増やして新しい工業部落が次から次へと連続して建設されてゆきました。その結果「工業村落」が農村のあちらこちらに出来上がったので、当時の人々は「田園地方なのにロンドンよりも沢山人口が集まっている」と表現するほど毛織物マニュファクチャーの集約された「新興産地」が現れたのです。
 「大綜画」があの有名な「農民の離散」を引き起こしたのに対し「小綜画」は居住地との関係がうすい、森林や荒蕪地を開発したり、従来の土地保有者や農民達の合意乃至は法令にもとづいて平和的に行われたので「農民の離散」を伴わずに進行しました。北部の地主などは所有地をわざわざ分割して「小綜画」を行い他地域からの貧窮農民や下層職人の移住者に貸し与えたといわれています。
 ある地域(例えばウェストライディング)では「大綜画」が一般的に発生し、ある地域では(例えばヨークシャー、ランカシャー)では「小綜画」が一般的に起こる等、大小規模の違った綜画が地域によって入り組んだ形で進行してゆきました。
 その結果イングランドー帯は荘園制度によって永年維持されてきた旧秩序が破壊され新しくマニュファクチュアー(産業資本)による生産機構が作り出される「スクラップ・アンド・ビルド型」の変革が繰り返されながら次第に毛織物マニュファクチュアーの姿が明確に打ち出されていったのです。

(3):社会構造の変革と分解−人の面からみた綜画運動−

 A:富裕層:綜画運動を強行した富裕な自営農民、大地主、商人、封建領主達は生産費の逓減が思ったより大幅に進み、その上農産物、羊毛、毛織物等の価格が急騰した為大成功を収めました。
 この成功がまた更に農民達を貧窮へとかりたてていくことになり、余りの強引さに一部の自営農民までが保有地を失って貧窮農民となってしまう程暴力的な農民(農奴)層の解体が行われたのです。
 18世紀半ばから19世紀にかけて一般的になった「三分制度」つまり近代的地主、土地を借りて農牧業を営む資本家、その下で働く賃金労働者の三者で構成される社会関係はもうこの頃から醸成されていったと言えます。
 B:「農民(農奴)層」:彷徨することをまぬがれた若い貧窮農民達は条令によってギルド出身職人の指導で技術訓練を受けた後強制的にマニュファクチュアーに徒弟として送り込まれ、一方、マニュファクチュア一所有者に対して貧窮農民達の受け入れを強制されていたので、彼らは膨大な数の賃金労働者群でしたが兎に角一度はマニュファクチュアーの中で毛織物生産者とならざるを得ませんでした。
 マニュファクチュアーに吸収された彼らは農牧生産から毛織物生産へ労働の仕方が全く変ったことに戸惑ったに違いありません。しかし雇い主との間にとりかわされた賃金契約によって労働作業をする雇用関係に最も衝撃を受けたことが想像されます。
 農村共同体に属する農民(農奴)として農耕作業や賦役労働しか知らなかった彼らが技能熟練度によって或いは労働時間によって受け取る賃金貨幣に個人差ができることを知り、真面目に労働して生産成果を挙げればそれ相応の報酬が得られることを学び取るまでずいぶん時間がかかったと思われます。
 そのうちに勤勉で向上心に溢れた一部の人たちが小親方となりやがて他の貧窮農民を雇用してマニュファクチュアーの所有者となって自営独立していくのを見ると「農夫の子は一生農夫」と信じきっていた彼らにとって「営業の自由」をはじめて実感したに違いありません。
 C:「都市のギルド職人層」:都市のギルド職人は農村のマニュファクチュアーが貧窮農民を多数雇い入れて生産規模をどんどん拡張していく状況に影響されて、以前からひっきりなしに続いていた農村流出は綜画運動の進行とともに急速に増加し、その反対にギルド組織の実質生産力は繊布業を中心にますます低下していく一方でした。
 ギルド職人達はそれなりに熟練した専門技術を持っており、農村に出ればすぐ眼の前に低廉で豊富な労働力がありましたから、早速マニュファクチュアーを作って都市から更に職人を引き入れたりして生産規模を容易に拡大できました。
 従って毛織物工業の重心はもはや都市から農村へと移動し、農村のあちらこちらに工業村落や農村都市が現れてくると彼らは都市の織元とともに衰退の一途をたどってゆきます。
 D:「中産的生産層」:貧窮農民達が中産的生産者層の所有しているマニュファクチュアーの中にどんどん入ってきたりやがてその一部が新しいマニュファクチュアーを作って彼らの下を去っていく現象は、従来ともすれば固定化しがちな中産的生産者層の内部を刺激して彼ら自身が改めて分解作用を起こすことになりました。
 彼らのなかには相当大規模のマニュファクチェアー所有者となって富裕化し、いわゆる「大親方」となっていくもの、従来通り中小規模の生産者として「小親方」的な位置にとどまるもの、或いは日雇い職人に等しい賃金労働者となっていくもの等分解作用はますます進んでゆきました。
 分解作用がここまでくると中産的生産者層の位置づけは賃金労働者の雇い主あるいは職人達の上位に立つ小親方という意味が薄れてしまって、マニュファクチュアーを所有する通称「農村の織元」(産業資本家)として富裕な者とそうでない者とに分解されながら新陳代謝が進んでゆくことになったのです。

(4):農村の織元

 ごく初期のマニュファクチュア一段階から少量の生産規模でも都市の織元の問屋制前貸しを受けず、毎週自己資金で原料を仕入れ自分のリスクで毛織物を生産し市場で製品の販売を行って結構きちんと利益をあげて来たいわゆる「貧乏な織元」と呼ばれる存在が農村にありました。
 当初都市の織元から羊毛や原糸の前貸しを受けてきた農村のマニュファクチュア一所有者達が“生産力”を拡充してくるとともに徐々に前貸し支配から脱して「貧乏な織元」と同じように自営独立の行動をとるようになりました。そして綜画運動の展開につれて大小様々なマニュファクチュアーが農村一帯にはっきりした姿をあらわすようになると、かつて「貧乏な織元」と呼ばれる織元が続々と出てくるようになったのです。

彼らの標準的な経常は

  1. 農村に住んで小区画の土地を所有または賃借してごく小規模の農牧業を兼営している毛織物マニュファクチュアーの所有者。
  2. 協業の規模は約10人乃至20人程度の労働作業員で構成する中堅クラスのマニュファクチュアー、しかし彼らの為こ紡毛作業を行う小規模生産者と場合によっては賃機制度(織機を貸与して織布作業をさせる外業部門)を持っている。通常染色、縮絨、仕上げの職場も兼営している。
  3. 自ら繊布工として生産労働を行い織元として賃機部門や各種の委託業務を含めてマニュファクチュアー全体の生産を管理統轄する。
  4. 問屋制前貸しは一切受けない。自分のリスクで原料羊毛、原糸を調達して紡毛工や賃機部門に前貸ししたり場合によっては染色、縮絨、仕上げを委託する。出来上がった毛織物は毛織物市場で自ら販売する。

「農村の織元」はこのようにマニュファクチュアーの所有者であるとともに生産業者として原料調達—製造加工—毛織物販売の一切をとりしきる産業資本家である点で「都市の織元」(前期的商業資本)とは全く異質の存在でした。



(5):宿命的な対決


 都市の織元は王朝公権と結託して農村の織元に対して問屋制前貸し制度の独占を更に一層押し付けようとしました。彼らはカンパニー制度の諸規制を強化したり各都市に特権企業を設立して原料や製品の販売を独占しようとしましたが、農村の織元には効果どころか逆に一般織布工や傘下のギルド職人の反感を強め、更に一層彼らの農村への転出や自営独立への気持ちをあおることになりました。
 同時に都市の織元は農村の織元の持っている生産設備や雇用人員に対して直接法的規制の網をかぶせてマニュファクチュアーの拡大を抑制しようとしました。しかし同じ規制内容の法令が何度も繰り返し発令されたことは、この規制条例が全く無視され無効となった事情を物語っています。 (註1:規制条令)

  1. 規制条例には例外規定が多く、特に毛織物工業の密集地域が除外されていたり、自営農民や農村の織元達の政治折衝によって肝心の地域は骨抜きにされてしまいました。
  2. 条例違反のかどで農村の織元達を裁判沙汰に持ち込もうとしても、当時地方(州)裁判所の治安判事達は自営農民や毛織物工業との結びつきが強く、彼らはあえて怠慢な取り扱いをしたため実効が上がりませんでした。
  3. 最も強調される事情は自営農民や農村の織元達が都市の織元やカンパニー(ギルド組織)の独占行為に対して白熱した反対議論を下院議会で展開し独占論争を大いに湧かせ一般大衆にまで強い影響を与えました。

 このような事情で理解されるように農村の織元達は生産力を背景にしてすでに強固な経済力と議会を動かす政治力を持つところまで成長を遂げていたのです。

(6):むすび

 農村の織元は発生の経過からみて分かるように、常に問屋制前貸しによる支配を排除しマニュファクチュアーの生産力拡充を基軸に自営独立の道を貫いていて成長しました。
 ではどうして農村の織元はマニュファクチュアーを充実し生産力を拡大できたのかを考えると、彼らが農村で流水等の自然条件や低廉で豊富な労働力源に恵まれたことが一般的な理由としてあげられます。
 しかし彼らがマニュファクチュアーの中に大勢の貧窮農民をはじめ貸金労働者を投入することによって「分業による協業」体制を確立し拡充し得たことが生産力そのものを大きく増強させることにつながった最大の理由といえます。
 ではどうして「分業による協業」体制が生産力拡大につながるのか、その理由は

  1. 分業による協業体制をとることによって労働者の熟練度を向上させることができる。たとえ昨日まで彷徨していた貧窮農民でも分担業務を繰り返すことによって熟練工に近づけることができる。
  2. 原料手配—選毛—椀毛—紡毛—織布の各工程間の道具設備と人員配置の均衡を保つことによって毛織物生産に最適の効率的な体制が取れる。
  3. 労働者の技能や使い勝手に適合するように道具を改良できる。
  4. 織機、染色、縮絨、仕上げ等の設備を一ケ所に集めて操業することにより分業協業体制が取り易く運搬経費、時間等が大幅に逓減できる。

ことによって生産量が飛躍的に上昇し生産費が大幅に削減されました。
 結果として期待以上の生産利潤が農村の織元達の手元に残ることになり、財務力が次第に蓄積され経営力が高まってゆくことによって商業資本の支配に充分対処できたのです。
 やがて都市の織元は農村の織元の前に屈服しければならない日がやってきます。旺盛な海外需要にこたえるためカンパニー商人の中にはどうしても毛織物を買い付けねばならなくなって農村の織元から直接購入するものが現れてきました。
 国内取引についても農村の織元のいきのかかった新興商人が現れて活躍するようになると、都市の織元は実質生産者であるギルド職人達が農村に流出して生産力が激減してしまったことと逞しい新興商人の台頭との「はさみうち」にあって衰退の道をたどるか、それとも自ら前期的資本の商業経営を近代化するかの選択を迫られていったのです。
 農村の織元が何故このように何世紀もかかって都市の織元の支配を脱しながら毛織物の生産規模を拡大し生産力を上昇させることに打ち込んでいったのか、彼らを自営自立の方向へかりたてるものは一体何であろうか、それは物質的な利益追求にあるのかそれとも独占とか自由とか言った精神的な要素にあるのか等多くの課題を残すことになりました。しかし一応イギリス毛織物工業の原型についての特長と初期資本主義社会の構造の一端を説明したのでこれらの課題は別の機会に譲りたいと考えます。

註1:規制条例:1555年発令「織物工条令」、1557/58年発令「毛織物製造に関する条令」等数々の条令があげられます。資料:大塚久雄著作集〈岩波書店):第ⅠⅠ巻近代欧州経済史序説掲載

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)





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