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Ⅳ:ウールと私達日本人(1)

藤井一義 (マネジメント・コンサルティング取締役)
 古代から私連日本人は全然といっても良いほど羊を飼育したりウールを生産した経験がないので、長い間羊のこともウールのことも単に知識の中だけで存在していたのに過ぎませんでした。
 私達自身ですら日本が毛織物工業国としてもウールの消費国としても、世界市場の中で非常に重要な位置に登場して来たことを認識したのは、実に戦後間もない1950年代に入ってからのことです。
 ヨーロッパ人にとって牧羊—ウール—毛織物の関係は、日本人にとって養蚕—シルク—絹織物の関係に酷似しています。東洋流に言えば、ウールとシルクを結びつける因縁の糸のようなものが、私達の気づかない所で絡んでいたのかもしれません。
 ヨーロッパや近東の人々はシルクロードの難関を越え東インド航路の危険を冒しながら、シルクと黄金を求めて極東日本にたどり着くため、紀元前の昔からありとあらゆる努力と知識を重ねて来ました。
 しかし私達日本人から見れば「南蛮」と呼ばれる異邦人が海洋の彼方から忽然と現れたのですから、異種異様な容姿や行動に対してただ驚嘆の声をあげカルチャーショックを受けるばかりであったろうと思われます。
 ヨーロッパ文化と日本文化の「邂逅」(かいこう=めぐりあい)と言うのには余りにも偶然の機会によって、一方は非常に能動的に一方は非常に受動的な形で、私達日本人はヨーロッパ人に出会いウールにふれることになったのです。

1:南蛮渡来の鉄砲とラシャ


 天文12年(1543年)ポルトガル船が種子島に漂着して、鉄砲とラシャ(毛織物の代名詞)に代表されるヨーロッパ文明の存在を私達の祖先に対して強烈に植えつけることになりました。
 戦国時代の血なまぐさい戦闘に明け暮れていた当時として、先ず武将達の眼が鉄砲に注がれたのは当然のことでした。

(1):種子島銃


 異邦人がもたらした鉄砲は「種子島銃」と呼ばれる火縄銃でしたが、この新兵器の登場は時代が時代だけに従来の戦闘方法を劇的に変革しました。
 空間を引き裂くような爆発音で、先ず柏手に恐怖心を起こさせる抜群の効架は喊声どころではない上、弓矢の届かない遠距離から発射しても人馬を殺傷する破壊力は惨烈をきわめるものがありましたから、戦闘を開始する前に敵の機先を制することが出来ることは正に驚嘆の一言に尽きました。
 戦国の天才児織田信長は一対一の白兵戦の前に、鉄砲3000丁を三段構えで交替しながら一斉射撃を行う弾幕作戦を展開して、またたく間に大量の人馬を殺戮し勝敗の流れを一挙に決定づける戦闘方法を開発しました。その後200年もたってナポレオン時代にヨーロッパでは初めてこの戦闘方法が実行されたと言われています。
 それまで戦局の勝敗を判断するのに強力な武将の存在や兵馬の動員数の大小によっていたのが、この新兵器登場によって鉄砲の性能や保有している数量が戦力算定の甚礎となって、戦闘どころか戦略までが大きく転換してしまったのです。

(2):鉄砲の内製化


 信長は堺を根拠に鉄砲の輸入を独占すると同時に、各地に散在する刀鍛冶達の鋳鋼技術を近江に集め鉄砲の内製化を積極的に進めました。
 刀鍛冶達は職人ギルドに似た専門技術家集団を作り、刀剣製造の手工業技術を駆使して精密度の揃った部品を組み立て、一度に多数の鉄砲を作り上げる分業制の製造方法や弾丸製造、火薬調合の技術を着々と完成させていったのです。
 種子島銃が現れてからの武将達にとって、鉄砲をどれだけ沢山揃えて調達するかが最も重要な課題となったのと同時に、鉄砲、弾丸、火薬を上手に操作できる銃撃手をどれだけ揃えて養成し動員できるかが戦闘に不可欠な課題となりました。
 今や白兵戦で刀剣を使って戦う勇猛果敢な武士よりも、技能レベルの揃った多数の銃撃手集団を作る必要が優先して来たので、従来の武士達の戦闘行動に対する考え方を根底から覆すことになりました。
 鉄砲の操作と火薬の調合のために今までになかった集団訓練が行われて、鉄砲足軽と言う新兵種が現れ重要な戦闘員となったのです。
 このような種子島銃による戦闘方法の変革に伴って兵器の調達や兵員の養成方法が、鉄砲の内製化と呼応しながら鉄砲鍛冶や鉄砲足軽と呼ばれる専門技術家集団の編成と兵器の「工業生産」と言うこれまでになかった概念を私達の祖先に植えつけたのです。

(3):ラシャ(羅紗)


 鉄砲が「種子島銃」と日本名で呼ばれ非常に速いテンポで内製化されたのに対して、同時に上陸した「ラシャ」は内製化されずに「ラシャ」(RAXA:ポルトガル語の毛織物)と言う外国名のまま明治維新を迎えることになりました。
 「鉄砲とラシャ」は遥か南方の海洋を越えて異邦人がもたらした貴重な産品と言う意味で「南蛮渡来の舶来品」と呼ぶ大げさな冠詞が与えられました。今日で言えば「輸入品:IMPORTED」に当たる言葉です。
 江戸時代以降鎖国政策によって国際交易のルートを長崎に眼定し、特に鉄砲等の武器輸入は厳しく禁止されましたから「ラシャ」は他の交易品と共に一般市民にとって非常に希少性の高い貴重な商品となりました。
 このような経緯から「舶来品」と言えば国産品よりも常にすぐれた商品と考える風習が「ラシャ」と言う外国名と共に今日まで残存することになったのです。
 鎖国政策を裏返しにすれば、外国との交易は幕府事業として公権と結託した特権商人だけに許された完全な「独占政策」でした。
 もはや平和を維持するためには鉄砲類の輸入は全く必要がないし、当時の武士政権も一般庶民も「ラシャ」の内製化まで到底考えが及ばなかったので「ラシャ」は「舶来品」の代表商品として更に一層洛陽の紙価を高めることになったのです。

(4):ラシャの用途開発


 ラシャには絹や綿では経験したことのない素晴らしい実用性が備わっていることを、私達の祖先は次々に発見してゆきました。
 戦国時代の武将達は鉄砲と共に「緋ラシャ」の重厚な素材感覚と強烈な色彩を利用して陣羽織を作り鎧の上に着用して、権力や武力を誇示するステータスシンボルに利用しました。しかし実際にはウールの雨雪に対する撥水作用や温暖効果がある上行動に楽な実用性が案外重宝だったと思われます。
 江戸時代に入って政権が安定してくると、武士達はラシャを外被として羽織や合羽に使うようになり、やがて富裕な商人達が武士や僧侶の真似をして座敷や茶室に毛髭(もうせん)を敷いたり、刀剣の束袋(つかぶくろ)、喫煙具人れ、財布等の雑貨小物顆にまでラシャを利用しました。
 撥水性があるので刀剣の束(つか)から雨水が浸入して起こる錆が防げるし、毛織物の表面を覆っている細かい毛羽によって懐(ふところ)や袖口から滑り落ちない利点やたとえ小片に切り刻んでも糸のほつれや型崩れしない等の特性が、ラシャの一風変った美観と共に「小粋な」江戸風情を示す文化にとりあげられたのです。
 少し変った用途ではラシャやフェルトで武家用の火事装束を作りました。ウールには高温高熱にあっても炎を出さない難燃効果と断熱効果があることを利用して「江戸の華」とうたわれた火事場の消火作業を監督する武上が使用しました。今日の消防士用ユニフォームやカーレーサー用の防炎服の源流は、既に江戸時代に開発されていたのです。
 種子島銃と違って、原料羊毛や生産手段を持っていなかったためラシャの内製化は明治時代に入るまで遅れざるを得ませんでした。
 しかし一般庶民の生活の中でひそやかに育まれた「舶来品ラシャ」によるカルチャーショックは、約300年の歳月を経て再び日本を襲った文明開化の波と共に近代社会の建設過程の中で、多方面にわたるウール需要の展開を示すことになって行きます。

2:ウールと和装


 幕末から始まり明治から大正にかけて私達の衣料市場は「モスリン時代」を迎えたと言っても過言ではありません。
 この時期ウールと私連日本人の関係は「モスリン」或いは「メリンス」と呼ばれる薄地の舶来毛織物を通じて「ラシャ」とは比較にならないほど急速に深まっていったからです。
 元来「モスリン」は綿製の薄い布地で、インドのダッカ(Dacca)地方の高級産品と言われています。それがイギリスをはじめヨーロッパに輸入された後、フランスやドイツでウールを素材にして製造され「ウールモスリン」として日本に輸入されました。
 日本の小売市場では「メリンス」と言う名称で販売され、それまで余り毛織物に縁のなかった和装用に、しかも主として婦人子供用に着用され更に風呂敷や座布団まで一般庶民の日常生活の中に広がってゆくようになったのです。

(1):「モスリン」の輸入

 (註1参照)
 「モスリン」の輸入は明治元年(1868年)既に約35万平方ヤードの記録があり、明治10年(1877年)には約1200万平方ヤードに達しています。更に全盛期の明治29年(1896年)に約3700万平方ヤードと言う膨大な数量にまで到達しました。
 このような「モスリンの輸入ブーム」も明治39年(1906年)頃から減少に転じ、大正6年(1917年)以降完全にストップしてしまいました。
 輸入がはじまってから約半世紀の間に内製化が普及した結果ですが、国内における大量の消費は昭和初期まで続き、日本におけるウール市場の形成を促進する歴史的な契機となります。

(2):「モスリン」の特性


 「モスリン」は日本人が今まで経験した最も薄い毛織物です。ラシャとは全く対照的な軽量織物ですから、非常に細い単糸の毛糸を経緯双方に使って製繊作業も染色作業も難しい製造技術を必要とする毛織物のひとつです。
 一般需要がこれほど集中したのは、普通のラシャ(毛織物)に比較して価格が格投に安く一般大衆が購入しやすかったからだと言われていますが、実際に「モスリン」を着用して次のような「ウールの実用性」を見つけたからと思われます。

  1. 輸入がはじまってすぐ友禅加工が日本人の手で開発されたので友禅模様をプリントすれば、見栄えは全く絹織物友禅と変らないこと
  2. 家庭婦人が単衣(ひとえ)を仕立てるのと全く同様に手軽に手縫い仕立てが出来る。小片切断後の処理はむしろ絹織物や綿織物よりも容易なこと
  3. 薄地軽量の織物ですから者ぶくれせず羽織の肩裏などにも部分使用が出来て、絹織物との「なじみ」も良いこと
  4. 保温性があるのは当然ですが、湿気や汗に対しても蒸れない「しゃりっ」とした清涼感がたのしめること
  5. 皺になりにくくそれでいて美しいシルエットを作り出すドレープ性があること

等の特性によって「ウールモスリン」は日本人の伝統衣服である和装の中に、先ずウール定着の第一歩をしめました。
 私達日本人には春夏秋冬四季の変化につれて衣服をはじめ身の回りの家具調度品や所持品まで色柄や素材等を変化させて季節感覚を楽しむ風習を持っています。
 「モスリン」のような薄地の毛織物が、四季の中で最も温湿度の変化しやすい夏をはさむ前後の時期、つまり「合(あい)の季節」に着る「普段着」から、ウールは私達日本人の日常生活の中に根を下ろしていったと見ることが出来ます。

註1:羊毛の語る日本史(山根章弘著PHP研究所発行;21世紀図書館0020)掲載 資料に基づいています。

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)




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