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Ⅵ:ウールとアメリカの人々

藤井一義 (マネジメント・コンサルティング取締役)
 15世紀末コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時、新大陸には何万年も前にアジアから移住してきたインディアンが僅かいただけでしたから、ヨーロッパの人々にとってはある日突然身の回りの生活圏が思いもよらぬ広がりを見せて彼等の眼の前に現われたといえるでしょう。
 アメリカ大陸につづくオーストラリア、ニュージーランド等のフロンティアの発見をひとまとめにして西欧社会から見た土地対人間の比率を割り出すと、なんと一挙に1平方マイル当たり26.7人から4.8人に大きく変わったといわれます。(註1参照)
 新大陸には彼等の欲望を満たしてくれる銀金等の財貨や資源が手つかずのまま眠っている可能性は確かで、人種も宗教も身分も国境もヨーロッパ人達の行動をさえぎる障害や規制は全くない「処女地」が果てしなく広がっていました。
 中世時代からの色々な束縛にあきあきしていたヨーロッパの若者達にとっては、この新しい世界に夢と希望を賭けて生活し労働することを大きな魅力と感じたに違いありません。
 羊を連れ家族を連れたひとかたまりの移民達が期待と不安とを交錯させた船旅を終えて新大陸の大西洋岸に降り立ってから、約500年の間にアメリカ合衆国という強大な近代社会を築き上げてきた努力の歴史を今一度検証してみたいと思います。

(1)ウールの国アメリカ


 アメリカ大陸のコロニー建設はまず牧羊事業から始まりました。
 16世紀初頭からスペイン人達はエスパニョール(西インド諸島のサント・ドミンゴ)を起点にして羊を連れインディアンを征服しながら北アメリカ南西部を通りメキシコに西進していきました。
 さらに彼等は銀や財貨を求めてカリフォルニアにまで北上しましたが、武力征服の途中や行動を共にした宣教師団によって牧羊事業を各地に展開し、今日でもテキサス州には当時入植した羊の子孫が僅かに「国産羊毛」として残っています。
 イギリス人はスペイン人に少し遅れて先ずヴァージニアに入植し(1607)北アメリカ北東部から大西洋沿岸一帯にコロニーを建設しました。さらに彼等は農牧用地を求め中西部内陸の「フロンティア」を目指してゆっくりとしかも確実な足取りで発進してゆきました。
 イギリス開拓民の中にはかつて嵐のようにイングランドを席捲した綜画運動のすさまじさを見聞きしていた人もいたことでしょう。父祖伝来の土地と農業を追われ生活基盤を一切無くしてしまった失意のどん底から、ようやく這い上がる気持ちで新大陸に広がる原林沃野を眺めながら、改めて当時の悲惨な運命を想い出したことに違いありません。
 移民達の中にはピューリタン特有の強い自立心をもち質素な生活と勤労を尊ぶ信条を常に維持している人がいました。自営農民として牧羊業者としてちょうどイングランドの農村で毛織物工業を支えた「ヨウマン層」が発揮した同じ気概をこめて新しい大地に鋤を打ち込んだことだろうと思われます。
 アメリカ合衆国独立のずっと以前に建国の理念に通ずるフロンティア・スピリットがこの新大陸に上陸していたことは非常に意義深いことだと考えられます。
 移民達は新大陸の気候風土が農牧業にとって本国よりもずっと快適なのに感激して耕地や牧場を拡大しようと一生懸命努力を続けました。
 品種改良のためにはどうしても旧大陸から交配用の種羊を輸入しなければならないので、まだまだ不便で危険が多い航海にもかかわらず何度も大西洋を往復して苦労を重ねています。コロニー建設以来の品種改良や牧場開発に関する並々ならぬ努力の歴史は大内輝雄氏著「羊蹄記」(平凡社発行)の中に詳述されています。
 結局16世紀から南西部に進出したスペイン人達の牧羊事業よりも、17世紀から北部中部に展開されたイギリス人達の息の長い品種改良の努力が、18世紀後半から19世紀にかけてようやく開花し旧大陸の業界から国際的な評価を受けるようになりました。
 アメリカ合衆図の牧羊事業は19世紀末に歴史的ピークを迎え、羊の保有頭数は5000万頭に達し、豪州・ニュージーランド地域に次いで世界第2位の産毛量を誇ることになったのです。

(2)綿花の国アメリカ


 17世紀後半イギリスでは木綿ブームが起こりました。インド製の捺染あるいは浸染の「キャリコ」(Calico:キャラコのこと)が流行し重衣料から軽衣料への需要が高まりました。軽いシルクに似た織物感覚と何と言っても安い価格が人々を惹きつけたようです。
 今まで紡毛織物の製造を主流にしていたマンチェスターの業者達が、保守性の強いイングランド人に似ず輸入綿織物に飛び付いて「キャリコ」の内製化をはじめたことは全く驚異的な変身でした。彼等は短期間に毛織物工業を押し迫けて綿織物工業をイングランドの代表産業の一つにまで持ち上げてしまったのです。
 やがてイギリスの綿織物工業を起点として全世界を揺るがす産業革命が発進してゆくことをどれだけの人が予想できたでしょう。
 綿花はウールと違ってヨーロッパでは全く生産できないので輸入に依存せぎるを得ませんでした。さしあたりレバント綿(エジプト綿)が輸入されましたが新大陸発見直後に入植されたジャマイカ綿 〈西インド諸島産)よりもさらに品質の優れた南部プランテーション産のアメリカ綿がすぐ独占的な輸入シェアを占めることになったのです。
 綿織物ブームに引きずられるように北アメリカ南部に入植された綿花栽培のプランテーションには人間自身までを交換の対象とする実に悲劇的な取り引きが重ね合わされていたことを私達は忘れることが出来ません。
 イギリス・フランスを頂点にして後にアメリカも加わりましたが、ヨーロッパ製の衣料品、武器、海運サービス、酒類等と交換にアフリカ大陸から奴隷を獲得する、その奴隷は北アメリカ南部プランテーションの綿花やタバコ、西インド諸島の砂糖、ラテンアメリカの財貨と交換される、あの有名な「三角貿易」が17世紀から200年以上も続くことになったのです。
 1619年ヴァージニアのタバコ栽培に黒人が初めて新大陸に入植されました。1666年カロライナにおいてイギリス人による綿花栽培のプランテーションが開始されさらに続々と西部内陸部へ進んでゆきました。
 18世紀に入って北アメリカ北東部を中心にそろそろ農村マニュファクチャーが産業資本形成の動きを見せる頃、南部プランテーションはますます活気を帯び19世紀前半にはオクラホマ・テキサスに達しています。
 南部全域に広がった綿花プランテーションは大英帝国を「世界の工場」的位置に押し上げたイングランド綿織物工業を支える経営資源市場になるとともに、奴隷制度を廃止した後もアメリカを代表する輸出産業でありつづけて今日に至るのです。

(3)工業化


 移住した当初は自家用の衣料だけに消費されていたウールも次第に生産量が増加し家庭内手工業で紡糸、製織された毛織物にも余剰が出来てくるようになりました。
 農民達が農産物を交換するために集まりやすい場所には教会が建設され、その周囲に自営職人や商人が住んで農村から運ばれてきた毛織物原反を仕上げて衣服に仕立てたり、帽子や靴あるいは農機具や馬具の注文を聞いたりして小さな自給体制をもつ工業集落が出来ました。そして小さなタウン(町)へと成長していわゆる局地的市場圏が形成されてゆきます。(註2参照)
 旧大陸からの入植者がどんどん増加してくる上に、既に定着している先発移民達の生活水準が向上してくると毎週「市」の立つそれなりの交易市場が出来上がってきます。
 運搬用具や農村と町との間の交通が改善されるとさらに大勢の人々が農産物や商品をたくさん持ち込んできて取引量も急速に増加してゆきました。するとさらに農民や職人たちの生産活動が刺激されて、結局市場と市場、町と町との間がつながって次第に国内市場が拡大されていったのです。
 18世紀後半北東部の農村工業の間には、当時イングランドで発生していた産業革命期の繊維産業の華々しい話題や新式の機械生産の様子を聞きつけて、たとえ小規模でもいいから機械を導入して毛糸や毛織物の生産量を増やそうとする機運が出てきました。
 機械導入の理由は増産に必要な熟練紡績工や織布工等の親方職人の数が限定されていたでしょうが、むしろ下級補助労働者の不足を何とか解決しようとする狙いがあったと推定されます。
 当時イングランドでは綿繰機、紡績機、力織機等の開発導入が行なわれ工場生産によって綿糸、綿織物の生産性が飛躍的に上昇しました。しかもそのために北アメリカ南部プランテーションの奴隷制綿花栽培はさらに一層強く拍車がかけられたのです。
 1793年サミュエル・スレーターによってロードアイランドでは合衆団最初の水力利用機械生産の綿紡績工場が稼動しました。続いてニューイングランドではフランシス・ロウエルによる紡績・織布一貫工場が建設され1820年代にはニューイングランド、マサチューセッツ、ペンシルヴェニア3州を中心に農村工業が一斉に機械制生産を開始したのです。

(4)工業化の影響


 北東部の機械導入に対して南部は奴隷制プランテーションによって綿花栽培を続ける以外何もしなかったと言っても過言ではありません。
 大英帝国がフランスとの戦いに勝利をおさめた後南部を全面的に支配することになりました。南部の人々は綿花輸出によって充分収入が確保され、多くの奉公人を抱えて豪邸に住み、好きな物を旧大陸から輸入するかあるいは北東部に注文すればよかったのです。国内市場を広げ資本の再生産を考える必要は無いと割り切って機械導入による工場生産のことなど毛頭無かったわけです。
 南部の帝国主義的な経営政策は北東部の産業資本の考え方と真っ向から対立し、やがて南北間の政治的、社会的闘争につながってゆきました。
 国内でウールと綿花が自給生産されそのうえ機械制工場生産の導入によって北東部の農村工業は1830年代毛織物あるいは綿織物工業として他産業とともにアメリカ独自の産業革命による近代化の道を走りだすことになります。
 コストがないに等しい奴隷制綿花栽培の強引な競争力に対して牧羊事業は到底勝ち目はありませんでした。19世紀を境にしてアメリカの牧羊事業は豪州・ニュージーランドの生産力に圧倒され他業種に転換せぎるを得なかったのです。
 農村工業の人々はボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアのような都市に住む織物仕上げ業者や衣料縫製仕立て業者と連携して衣料の工業生産にまで製造領域を広げてゆこうとしました。
 したがってこれらの3都市を中核にしてニューイングランド、マサチューセッツ、ペンシルヴェニア3州はアメリカ合衆団の3大繊維衣料産地を形成して産業資本活動の発進地となったのです。

註1:土地対人間の比率
猿谷要著:物語アメリカの歴史(中公新書)P48を参照して下さい。R.A.ビリントン博士の説として紹介されています。
註2:局地的市場圏
大塚久雄著作集第5巻資本主義社会の形成(岩波書店刊行)1局地的市場圏を参照して下さい。
本稿作成に当たって引用および参考にさせていただいた文献は次の通りです。
神武庸四郎・斉藤伸次郎著:西洋経済史(有斐閣Sシリーズ)、上出健二著:繊維産業発達史概論(日本繊維機械学会発行)、毛製品統計研究会編集:アメリカ羊毛工業概観(毛製品輸出対策協議会発行〉、大塚久雄著:大塚久雄著作集第5巻:資本主義社会の形成(岩波書店発行)、大塚久雄著:歴史と現代(朝日選書)、大内輝雄著:羊蹄記(平凡社発行)、鈴木直次著:アメリカ産業社会の盛衰(岩波書店)、猿谷要著:物語アメリカの歴史(中公新書)、森杲著:アメリカ職人の仕事史(中公新書)

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)






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