【羊毛講座1】国家経済を左右した毛織物貿易【藤井一義】

3.新大陸と東インド新ルート発見がヨーロッパに及ぼした影響

1492年コロンブスによるアメリカ新大陸発見と、1498年ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰を迂回する東インド航路の新ルート発見は、東インド貿易の中で非常に重要な国際商品であった銀と毛織物とこの交易に携わってきた仲介商人たちの「位置付け」や「役割」を一変させてしまいました。

(1)中継貿易の没落と商業革命

まず第一の変革は、中継貿易がすっかり没落してしまったことです。アフリカ大陸の海岸に沿って南下し、喜望峰を回って北上する新ルートを利用すれば、航海力がある限り誰でもインド洋に出て、中近東や東インド諸国に到達できるわけですから、産品の調達や交易が直接当事者間でできることになりました。そのうえさらに第2の変革は、新大陸アメリカで発見された非常にコストの安い「銀」が大量にヨーロッパに運ばれてきて、銀相場がいっペんに急落したため、南ドイツ産の銀や他の鉱産物を支配して仲介の暴利をむさぼっていたドイツの「高利貸し資本家」や、イタリア、ポルトガルの「特権商人」たちが急速に破産の運命を辿ることになってしまったのです。その結果、ヨーロッパの商人たちは東インド貿易のための中継港であったヴェニス、ジェノア、ヴェネツイアやリスボンにわざわざ立ち寄る必要がなくなり、ヨーロッパ産品を仲介していたイタリアやポルトガルの「特権商人」たちや、彼らと特別の取引関係をもって東インド諸国産品の仲介をしていたアラビア商人たちの手も借りる必要がなくなってしまったのです。結局、東インド諸国の望む銀や毛織物をコストさえ安く入手できれば、そして長期で危険な海路の旅を続ける勇気と航海力さえ持てれば、現地へ出掛けてヨーロッパの欲しい産品を直接買い付け、自分自身の手で、持ち帰れるようになりましたから、仲介商人たちがさまぎまな形で連繋していたヨーロッパ内陸や地中海周辺の海路に、従来からあった商業交易のルートがすっかり変わってしまって、ヨーロッパ全土にあの有名な「商業革命の嵐」が発生することになりました。

(2)新大陸と東インド諸国を結ぶ”キーワード”商品の毛織物

そこで、新大陸アメリカでは銀の採掘、牧羊や綿花の栽培等が大きく脚光を浴びて、ヨーロッパ中の団が争って新大陸の植民地経営に乗り出すことになりましたが、その結果、新大陸アメリカとヨーロッパ大陸との両方で、羊と毛織物をめぐる膨大な新規需要が起こって来て、この新規需要に対して、スペイン、オランダ、イギリスをはじめヨーロッパ中の牧羊業も毛織物工業も揃って興奮の渦の中に放り込まれることになりました。つまり、「東インド貿易」の花形輸出品であった南ドイツ産の「銀」とは比較にならないほど安い「銀」を新大陸アメリカから自国に持ち込もうとすれば、その代償として、新大陸に入植して労働する人々の着る「毛織物」を新大陸に向かって輸出せねばなりません。さらに、従来通り、ヨーロッパの珍重する胡椒等の香辛料や、カーペット、絹織物、綿織物等の東インド諸国の産品を自国に持ち込もうとすれば、代償として、新大陸からの安い「銀」とヨーロッパの「毛織物」を東インド諸国に輸出せねばならないわけですから、ヨーロッパを中心軸にして新大陸アメリカと東インド諸国との貿易関係を結び付ける”キーワード”商品は、「銀」と「毛織物」になってしまったのです。引き続いて新大陸からおびただしい量の銀がヨーロッパに流れ込んでくるようになると、南ドイツ産の「銀」が大暴落を起こしたのは当然のことですが、それに比べるとヨーロッパだけでしか生産されていなかった「毛織物」に対する需要はさらに急上昇して、ヨーロッパの代表的な花形輸出産品としてだけでなく、新大陸-ヨーロッパ-東インドの3市場を連結する”キーワード”商品として、ますます重要な位置を占めるようになっていったのです。