【羊毛講座1】国家経済を左右した毛織物貿易【藤井一義】

4.毛織物工業国三強の国際競争

(1)スペインの毛織物工業

16世紀半ば頃まで絶対制王朝の庇護によって繁栄の頂点に達していたスペインの毛織物工業は、王朝自身が以前から南ドイツの高利貸し資本家やイタリアの「特権商人」に対して多額の負債を負っていたのと、史上最強といわれた「無敵艦隊」をはじめ軍事力を維持するために無理な財政支出を行なったのとが重なり、赤字国に転落してしまったので、一般国民をはじめ諸工業に従事する人々は「インフレ」と「重税」とに苦しむようになって、当時ようやく自立自営を始めたばかりの毛織物業者たちはとうとう赤字経営に陥り、国際競争力をなくしてしまうことになりました。せっかく新大陸から大量の「銀」を運んで来ても、その「銀」は国外に流出するほうが多くて、国民経済に貢献できなかったのです。そこへもってきて新大陸からどんどん運ばれてくるコストの安い「銀」が、いつもスペインの物価を押しあげていた背景的な事情もあって、ますますコスト競争に勝てないようになり、その結果、16世紀後半、もろくも南ネーザーランド地方の毛織物工業に「王座」を明け渡してしまうことになりました。もちろん強大さを誇っていた軍事力も、イギリス、オランダ両国の急激な追い上げによる「挟み撃ち」にあって、どんどん衰退していきましたから、新大陸アメリカにおける彼らの牧羊入植事業も、このような本国の影響を受けて次第に弱体化せぎるを得ませんでした。かつて全世界にまたがる植民地を領有した、全盛を誇ったスペイン王国も、17世紀を待たずに毛織物工業とともに世界史の栄光の舞台から消え去っていったのです。

(2)南ネーザーランド地方(現在のオランダ、ベルギー、北フランスの一部)の毛織物工業

南ネーザーランド地方の毛織物工業は、随分古くからスペイン・イギリス等から原料羊毛を輸入して毛織物を製造加工し、スペインをはじめヨーロッパ諸国に輸出していました。13世紀頃から農村を中心にして問屋制度の下で自立自営しようとする「中産的生産者層」(マニュファクチャー)が大勢出てきて、彼等の価格競争力はなかなか優れたものがあった上に、毛織物の製造加工技術も非常に高く評価されていましたので、次第にスペインの毛織物工業の座を脅かしていくようになりました。ところが1585年、スペイン軍が南ネーザーランドの中心地アントワープを占領したため、彼等は故郷を追われて大挙集団移動し、アムステルダムやライデンの方に北上せざるを得ないことになってしまいました。この時、一部の熟練した職人達がイギリスの毛織物工業に迎えられて農村に移住定着し、イングランドで当時勃興しつつあった毛織物工業に対して技術指導を行なっています。当時まだ羊毛原料生産国であったイングランドが、後年毛織物生産国に変わり、特に梳毛織物の名声を高めることになったのは、これらのオランダ熟練職人の優れた製造技術が非常に大きく貢献したからです。
(註1参照)

その後オランダに独立連邦共和制が確立すると、彼等は以前よりも更に活発に活動を始め、1602年「東インド会社」を設立して貿易経済力を大いに高めてゆきます。軍事上でもイギリス艦隊と連合して、有名な「スペイン無敵艦隊」を撃破した後は、東インド新ルート沿いにスペイン・ポルトガルの領有地を次から次へと追い落としながら、遠くインド洋を回り、アジアを経て極東「日本」に到達しています。そして江戸幕府に対して持ち前の通商交渉力を発揮して、鎖国後もヨーロッパ列強の中でオランダだけが通商関係を続けることができました。このように彼等は活動範囲を急速に拡大し、世界のほとんど全地域にわたってオランダの足跡を今世紀まで残すことになりました。しかし、元来オランダは湿地帯が多く羊の飼育には適していないため、南アフリカに牧羊入植事業を計画したのですが、ついに成功出来ずに終りました。したがって原料羊毛をすべて商業資本の手を借りて外国からの輸入に頼らなければならなかったので、せっかく自立自営を目指した「中産的生産者層」も、王侯貴族や彼等に結び付いた強力な問屋制商業資本の支配下に完全に抑制されてしまい、産業資本として自立できないまま衰退に向かわぎるを得ませんでした。このような経過で、彼等はついに、16世紀からめぎましい勢いで躍進してきたイギリスの毛織物工業の後塵を拝することになってしまったのです。
(註2参照)

(3)三強-スペイン・オランダ・イギリス

スペイン・オランダの両国がたどった経緯が示しているように、毛織物工業の生産力に裏付けられた経済力と海軍を中心にした軍事力との連携がその国の行動半径を拡大する重要な要素となってゆきます。コロンブス以来西方ルートに向かったスペインは南北アメリカを縦横に駆け巡って、インカ帝国をはじめ現地の文化を破壊し、多くの原住民を滅亡させて、太平洋沿岸のほぼ全域を制覇することになりました。一方オランダは東方ルートをとり「東インド会社」を設立してアフリカを迂回し東インド諸国どころか、インド洋沿岸、東南アジアから極東の南太平洋地域に彼等の交易勢力圏を伸ばしてゆきました。このようにして、とうとうヨーロッパをスタートした両国の東方ルートと西方ルートとが太平洋上で結ばれることになったのです。スペイン・オランダが多くの危険と困難を乗り越えて「未知の世界」を切り開く「開拓精神」に燃えた行動をとったことを誰も否定しませんが、スペインが軍事力によって常に植民地の「征服収奪」を行動目的としていたことが、現在スペイン植民地跡の随所に残されているのに対して、オランダは新しく発見し開拓した地域や国家との間にまず「商業交易」による人と産品との交流を試みることを常に考えて行動したように思われます。この両国の後を追って彼等の踵(きびす)に接するように行動したイギリスの開拓精神は、両国に劣らず非常に旺盛で、時には海賊行為をするような勇猛な要素がなければ、今日の米国や豪州・ニュージーランドは存在していなかったと思われます。更にこの開拓精神の背景となり、あるいは彼等の行動を押し進めた「理念」といえる要素がスペイン・オランダとは少し違っているように見えます。いわゆる「見えざる手」に導かれたのかも知れないのですが、彼等は常にイギリス本国を中核においた「生産力」を念頭に持ち続けて行動する戦略構想を維持していたと考えざるを得ません。しかし、結局のところ、イギリスは三強の「最後の勝利者」としてユニオンジャックの旗の下に「新しい世界」と「新しい市場」を作り上げることを計画し、その構想を強引にしかも確実に実現した国家でした。このようにして、16世紀から18世紀までの3世紀の間、世界史の舞台の上でこれら三強をそれぞれ主役に、牧羊や毛織物工業を背景にした「新しい世界」を創造するドラマが、いよいよ最高潮に達することになってゆきます。