【羊毛講座3】ウールを製造加工する人々【藤井一義】

1:イギリス羊毛工業の基本的な性格

現在世界中どこへ行っても毛織物といえば必ずイギリスを発祥の地として考え、そしてイギリス製毛織物が常に最高の位置に置かれるのは、数世紀にわたる長い間、常に最高の技術と安定した品質を誇る毛織物を世界中の人々に供給してきた実績を評価しているからです。

このようにイギリス製毛織物に対するすぐれた評価があらゆるところで語られるもうひとつの背景には、毛織物工業が自然発生的と言われるほど円滑にしかも他周には類例が見られないほど典型的に資本主義による生産体制をイギリスの経済社会の中に建設し、そして近代社会をつくりあげた世界史的な事実のあることを見逃すわけにはゆきません。

では一体どうしてこのようにすぐれて評価の高い毛織物をイングランドの田園地方で何世紀もかかって生産してきた人々の努力が、今世界中ほとんどの国を網羅している資本主義社会を建設することに結びついてゆくことになったのかが問題となって来ます。

14世紀に入る頃イングランドの人々は、古めかしくて堅苦しい体制に閉じ込められていた封建制度の暗闇の中から、イングランドを取り巻く海洋の果てしないひろがりとさらにその向こうにある言われる新しい世界のことをそろそろ意識しはじめていました。

そして14世紀の半ばを過ぎる頃になると当時の輸出需要に引きずられる恰好で農村のあちらこちらに毛織物の工業生産を営む職場らしいところで糸を紡いだり機(はた)を織ったりする人々の姿が見られるようになってきました。その頃の毛織物工業と言ってもまだまだ家内工業的な小さな規模で毛織物を製造したり加工する「初期マニュファクチャー」と呼ばれる段階の工業生産でした。ところが次第に作業労働をする人数が増え職場も広がっていってその中には本格的な「マニュファクチャー」と呼ばれる段階に成長してゆくものもあらわれて、徐々にしかし確実な足取りで産業資本による生産体制が整えられてゆきました。

そこで「マニュファクチャー」として産業資本による生産体制を整えつつあった時期のイギリス毛織物工業の「生産の仕組み」や「生産形態」にスポットをあてながら、この工業生産の長い伝統の根底に流れている基本的な性格がどのような経過をたどって「資本主義による生産体制」の原型の中に組み込まれていったのかを追究してみたいと思います。

(1)自然発生的な生産

太古の昔、ヨーロッパ大陸の方々からブリテン島にやってきて定住した人々にとっては、羊を飼いウールを生産したり毛糸毛織物を生産する仕事は農耕作業と全く同じ重要さをもった、どうしても欠くことの出来ない生活の一部となっていました。

やがてウールの生産が自分達の消費する分量を越えるようになると商品流通が始まり、そこへ羊毛を取引しようとする商人があらわれて余剰生産分を集荷し、以前から毛織物工業が繁栄していたイタリアや南ネーザーランドヘの原料として供給する商業活動が行なわれるようになって来ました。

このようにして中世以来ヨーロッパ大陸の各地からイギリスは羊毛産出国としての評判を受けるようになりましたが、ウールを輸出することによって得られる貨幣収入は、封建制度の下で貧困に喘いでいる農民層(農奴層)にとって有力な生計の補助となり、そしてヨーロッパ諸国の中では比較的早いうちから農村を商品流通と貨幣経済の中に引き人れることになったのです。

毛織物の生産を職業とする人々がイギリスの歴史上にあらわれたのは12世紀の初期で、ロンドンをはじめ多くの都市において商人ギルドに対抗して織布工の職人ギルドが組織されています。したがってこれらの専門職人があらわれるずっと以前から農民層の家々では農業を主な仕事としながらそのかたわらウールの生産に続く工程の仕事として毛糸や毛織物の自家生産を行なっていたことは当然の『成り行き』であったろうと思われます。

ぽつぼつとこのような形で毛織物の生産が増えてくるとウールの輸出と並行してやはり羊毛商のような取引商人があらわれて「未仕上げ反」が北部イタリアのフィレンツェその他の都市に運ばれてゆくことになりました。この段階になると毛織物の生産は『割の良い有利な副業』として農民層の家計の中に深くそして広い範囲に浸透していって、ますます農民層の懐具合を豊かにし、農村全体の商品流通と貨幣経済が発展してゆくことになったのです。

以上の歴史的な経過はイギリスの農民層が職業と言うよりも運命的に義務付けられた農業と共に常に農家の中でウールから毛織物までの生産を営むことによって次第に貨幣収入を伴う『有利な副業』として欠かせない生計となっていった結果、封建制度の下で実質的にイギリスの経済社会を支えている農村の中に新しい商品流通と貨幣経済体制を自然発生と呼んでもいい形で作っていったこと。そしてこのような事情が羊の飼育からはじまってウールの生産へ、ウールの生産から毛糸を紡ぐことへ、毛糸の生産から毛織物を織ることへと自然につながってゆく工程の流れを家庭内生産から工業生産の段階に発達させる有力な促進要素となったことを物語っています。

つまり自然から与えられた土壌や気候条件に順応していつも豊かな収穫を祈りながら労働する農業生産と同じように、自然の摂理によってウールの中に秘められた羊の「天性」(Nature)が毛織物の上に生きてくるように生産工程を進めることを基本として、イギリスの毛織物工業は成長し発展してゆきました。

(2)ウールから毛織物までの一貫生産形態

現在でもあの狭いイギリス本土には細くて白いメリノー種から太くて長い英国種までずいぶん多くの種類の羊が飼育されています。オーストラリアやニュージーランドのような旧植民地を除いてイギリスほどたくさんの種類の羊が飼育されている国はありません。

例えば北海の潮風にさらされている北部スコットランドには羊が飼育されている島や峡谷ごとに「キャラクター」(ウールのもって生まれた性格的な得長)が違うと言われる「英国種」の羊がいます。

そしてこの種類の羊から刈り取られたウールを使用して生産されたスコッチツイードやシェトランドと呼ばれる毛織物は一見してどの種類のウールを使用したかが分かるほど素晴らしい風合いや地域性豊かな持ち味を備えています。

ただしなやかに白く輝いて見えるウールを毛織物に作り上げて、その地域の羊種ならではと言われる優れた持ち味を表現できるのはその地域に長年羊とともに生活してきた生産者達が何代もかかって何度となく試行錯誤を繰り返しながら、ついに完成したウールの「キャラクター」に最適の製造加工方法をとっているからです。

同じ羊種同じ地域でもシーズンごとに微妙に変化すると言われるウールの「キャラクター」を毛糸や毛織物の特色に仕上げてゆくためには、どのような水質の水を使ってどんな洗い方をするのか、どのような「経糸」(たていと)の張り具合で織機にかけどのような「速さ」で「緯糸」(よこいと)を打ち込むか等と言った実に細々とした技術ノウハウがイギリスの随所に積み上げられています。その中には14世紀当時のオランダから学んだ技術も同化されて、個々の企業の伝統銘柄として今日もなお継続されているのです。

なおこのようなイギリスの毛織物貿易の経緯をフィレンツェに繁栄をもたらした毛織物の仕上げ加工貿
このようにウールに関するすべての人達が常に羊種ごとに地域ごとに特性を備えたウールの「キャラクター」を中心において原料から製品までの一貫した生産体系をとることを原則としてそれぞれの製造工程に配慮を払って来た結果であると言えます。

(3)トラフィック型仕上げ加工

ところが12世紀ないし13世紀の頃、イギリス製毛織物原反(未仕上げ反)が北部イタリアの諸都市に輸出され染色や仕上げ加工が行なわれて「美しくて艶のある」イタリア製毛織物として中近東地域に再輸出されていました。商業革命後の16世紀や17世紀以降においてもイギリス製毛織物原反(未仕上げ反)はイタリア、スペイン、オランダその他各国に輸出されて今日に及んでいます。

さらに不思議なことにイギリスが外国産の「未仕上げ反」を受け入れて仕上げ加工をしたことはほとんど史実の上に表われていません。つまり中世の頃からイギリスの人々は毛織物を「未仕上げ反」のまま輸出しましたが逆に「未仕上げ反」を輸入することはほとんどなかったのです。その反対にイタリアをはじめスペイン、オランダ等の人々は自国産の毛織物の上に外国製の「未仕上げ反」を出来るだけたくさん輸入して仕上げ加工を施した上、新大陸や東インド貿易に利用しました。

このような相違は一体どこから生まれてくるのかと言う問題ですが、まずイギリスには仕上げ工程の生産能力がいつも不足する状態が長く続いていたことがあげられます。そしてさらに毛織物の輸入に重税を課してほぼ禁止状態にしていた重商主義政策が成功したからと考えられます。しかしそれ以上にイギリスの人(毛織物生産者と言うよりもまず羊毛商や毛織物商のような商業貿易に携わる人々まで)が、ウールから毛織物までの一貫生産型の原則形態に「こだわり」を持っていたのに対し、他国は「未仕上げ反」を仕上げ加工するだけのいわゆるトラフイック型(Traffic型:商業貿易型)の加工生産によって生産量と販売量をかさあげしようとすることに重点が置かれていたと推定されます。

イギリスの考え方がウールの生産から、たとえ「未仕上げ反」とは言いながら毛織物を製造する一連の生産循環を繰り返すことによって利益を生み出そうとする産業資本的な考え方であると言うなら、イタリア、スペイン、オランダ等の考え方は「トラフイック」(商業貿易)型の言葉通り商業資本的(前期的)な考え方と言うことが出来ます。

史実から見ても16世紀以降イギリスは毛織物工業の発展を基盤にして世界貿易システムを築くことを目標にして世界の工場となる方向に走り出しますが、イタリア、スペイン、オランダ等いずれの国においても毛織物工業は一時的な繁栄を謳歌しましたが、産業革命期までに世界史の上から姿を消してゆくことになりました。

(4)分業による協業の生産体制

ウールの生産も毛織物の生産も農民達の家庭の中に自然に生まれ次第に生産量も増加して農家の重要な副業となってくると、彼等の主な職業である農業耕作と同じように誰がいつどんな作業を分担するかを家業としてはっきりさせることが必要になってくるようになりました。

封建時代農民層(農奴層)の人達は自分の考えで農業耕作を放棄したり、好き勝手に土地を離れることが厳禁されていた上、春が来ればいつどんな穀物の種子を蒔くか、秋が来ればいつ収穫して封建領主に地代として納付するかの作業工程が細かく規定されており、有名な「三圃(さんぼ)制度」によって土地の使用区画や共同地の入会(いりあい)権が厳密に制定されていましたから、彼等は自分の意思で選んだ職業としての農業耕作を営むのではなく生涯所定の土地区画で農業耕作を強要され領主に賦役貢納しなければならない共同体としての拘束を受けていたのです。

勢い副業としてのウールや毛糸毛織物の生産であろうと、家庭の中で誰がいつ頃どんな種類(製造工程)の作業を行なう方が都合がいいかと言ったような家族構成に応じて自然に出来上った慣行が当初からあったと考えられます。

たとえば家庭内で作業をする場合に「選毛」(刈り取った脂付きのウールを適質のものとそうでないものとに仕分ける作業)や「紡毛」(毛糸を紡ぐ作業)のような軽量単純作業は家庭婦人や未成年者が行い、「梳毛」(選毛されたウールを梳いて繊維を揃える作業)や「織布」「染色」「縮絨」(水分や温度を与えて、毛織物のふくらみやソフトな感触を作り出す作業)「剪毛仕上げ」(毛織物の表面の毛羽を刈り揃えて艶を出しソフトに仕上げる作業)は重量を伴い、それぞれ技術が必要なため一般に成年男子が行いました。

(5)毛織物マニュファクチャーの形成

14世紀に入る頃になると、都市では既にギルド組織の形をとって職人の分業体制が割合はっきりした姿で行なわれていました。しかし農村では半農半工の副業的な形をとりながらまだ家庭内だけの労働で毛糸を紡糸したり毛織物を製織する状態でした。それでも紡糸は紡糸の職場をもち織布は織機を置いて職場を作っていましたから、いわゆる「マニュファクチャー」のごく初期の生産体制が出来上がっていたと言えます。

東インド貿易のために羊毛商や毛織物商達が今まで以上に毛織物生産の増量を要求してくるようになると、それまでのような家庭内労働だけの生産規模では不足することになり、そこで先ず選毛や紡毛作業を行なう家族労働者を一軒二軒と増やすか、あるいは他家の婦女子を自分の家庭に呼び集めて作業をさせ毛糸の生産量を増加することにしました。さらに織機を増台しようとしますが、出来れば熟練した織布工(雇い職人)と補助労働者(徒弟)を賃金で雇い入れ自分の敷地内の職場家屋で本人も一緒に協同して織布作業を行なうようになりました。

都市に住むギルド組織の織布職人の場合「親方−雇い職人−従弟」の三段階制度をとり、一定の年限を経過しなければ親方にまで上昇できない厳格な身分制度による職制をかたくなに守りながら生産を行っていましたから、農村の織布業者が例え同じ名称の職制をとっているようでも労働作業をする職人達の身分上での自由度はまったく違う内容のものでした。

15世紀16世紀頃の農村における織布業者の生産形態の重要な点は、
紡糸、織布業者は必ず半農半工の形態をとっていること。(この形態は17世紀までずっと続くことになります)
紡糸作業をする他家の家族労働者や出来るだけ熟練した織布工(雇い職人)あるいは補助労働者(徒弟)を賃金形式で雇う関係が出来ていること。
選毛、紡糸、織布といった分業化された工程別の作業員達を一カ所に集め協同して同じ工程作業を行なういわゆる「分業による協業」が行なわれていること、です。

したがってこの生産形態はもう既に家内生産のレベルをこえて小規模ですが産業資本による工業生産の経営体すなわち「マニュファクチャー」と呼ばれる経営体に発展しているわけです。

随分古くからイギリスの羊毛工業が積み重ねてきた基本的な性格がますます積極的に商品流通(貨幣経済)を促進してゆく中で、なんどとなく遭遇する歴史的な社会的な変動によってどんな影響を受けどのような変容を遂げてゆくことになるかについて次項で考えてみたいと思います。