【羊毛講座4】ウールと私達日本人【藤井一義】

5:前期の毛織物工業の特性

日本の毛織物工業は原料市場をもたず、生産市場も消費市場も国家政策によって急成長した繊維産業です。イギリスはたとえ毛織物の国内消費が僅かでも、色々な種類のウールや織物用原糸がいつでも容易に準備できて、アメリカや東インドをはじめ膨大な海外需要を一手に引き受けることが出来た前提条件の相違はいかんともし難いことでした。

14世紀15世紀の頃からイングランドでは「農村の織り元」達が中核になって原料羊毛の購入や原糸の生産を自己資金で行い毛織物を自ら市場で販売することによって、経営の独立性を高め毛織物工業の主導的立場に立ちました。

日本の場合は紡績業者が多額の資本を投下して原料羊毛を購入し原糸を工場で生産して織布業者に販売する立場に立ちました。原料羊毛の購入から原糸生産までの非常に大きなリスクを背負ったのは大資本を持った紡績業者だったのです。

当時地方の産地で絹織物や綿織物の織布業者の一部が転業して「着尺モスリン」や「着尺セル」を織りはじめようとした時、原糸を調達するリスクを負担することは到底無理なことでした。

従って一般的な意味で織布業者は紡績業者の販売先顧客なのに、織物用原糸を求める時資本の大きさやリスク負担能力と言った資本主義の理屈が働いたことは止むを得ませんでした。

織布業者は紡績業者に原糸供給を全面的に依存する立場に立ち、紡績業者から見れば一種の下請的立場に立っているようになってしまったのです。

イングランドの「都市の織り元」達が紡毛(紡糸)や繊布を行う零細な家庭手工業者に対して、原料羊毛や原糸を問屋制度的に前貸し下請けさせたのと全く逆の関係が日本では成立してゆきました。

維新以降「鉄砲もラシャも」同じレベルで見直され毛織物工業が異例の躍進を遂げたことによって、絹織物工業、綿織物工業と共に繊維産業として資本主義生産社会の基軸的な位置につくことが出来ました。

前期中にウールと私連日本人の関係は、ようやく和装を通して私達の日常生活の中に綿や絹と同じ「親密さ」をもって迎えられるようになりました。

しかし「鉄砲とラシャ」はどうしても戦争と離れられない悲運を抱えているのでしょうか。ウールと私達日本人はまたもや太平洋戦争の中に没入してゆかざるを得なかったのです。

註:本稿は次の資料を使用しています。
1.日本羊毛産業喀史(昭和26年5月20日発行 日本羊毛紡績会編集)
2.日本毛織百年史(平成9年6月30日発行 日本毛織株式会社百年史編纂室編集)

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニー(IWSマンスリー連載より)