【羊毛講座4】ウールと私達日本人【藤井一義】

2:オイルショック以降の毛織物工業

オイルショックとそれに続く大不況に遭遇した日本経済は急遽右肩上りの成長路線を修正し、企業は原料資源やエネルギー費あるいは人件費の高騰によって引き起こされたコスト高の要因や企業内外の構造的矛盾を根本から明確にする必要に迫られました。

戦後「拡大の4分の1世紀」の間、日本の毛織物工業は一方で新規参入や操業規制を続けながら一方で売上高の上昇と生産規模の増大を求めて来た結果、設備規模はともかく世界の頂点に立つことが出来ました。

しかしオイルショックの衝撃が終っていざ足元に視点を落として見たとき発見したのは、原料調達から製品供給までのすべての工程を通して膨れ上がっていくばかりの生産コストと市場に溢れかえって劣化するばかりの滞留在庫でした。

愕然とした毛織物工業は生き残りを賭けて、まず高コスト体質を転換するため「減量経営」に徹する覚悟を決めて大不況の中に突入してゆきました。

1980年代に入って日本経済は世界中でもっとも早くショックを調整し終ったのにかかわらず、毛織物工業に与えられたものは「構造不況業種」という不幸な烙印でした。

さらに日本経済が世界最大の債権国となりGNPの高さを誇る時期が来ても、毛織物工業はひたすら減量経営を続け今20世紀を終ろうとしています。

オイルショックから今に至る「転換の4分の1世紀」の間、日本の毛織物工業は一体どんな減量政策を取り続けて来たのか。そしてその結果ウールと私達日本人の関係はどう転換していったのかを検証してみたいと思います。

(1):高コスト体質

毛織物工業にとって最も重要な経営資源となる羊毛はオイルショックと同時期の1973/74年シーズンから、豪州市場が支持価格制度によって運営されることになりました。

何度となく起こった市場の乱高下を抑制する効果はあったかもしれませんが、支持価格はウールの需給関係を必ずしも充分相場に反映出来ず、結局毛織物をはじめウールと名のつく製品の原料コストを高く押し上げてしまいました。

私達日本人が高度成長の花見酒に酔い痴れている間に高騰したエネルギー費の上にGNP世界一に向かって進んでいた労働人件費が加わって、今や日本は世界で最高の生産コストを抱え込んだ大国になってしまったのです。

ニクソンショック以来国際金融化の波はオイルショックを挟んで日本経済を円高方向に押しやるばかりでした。

1985年プラザ合意によってさらに一層強く日本経済は円高傾向を決定づけられてしまいました。

日本の製造企業にとって円高を凌いで国際市場で競争出来る生産コストを維持できるかどうかが経常の優劣を決める必須条件になりました。オイルショックを契機にしてついに繊維産業は国際競争力を失い日本のリーディング産業の座を降りて円高潮流の波に翻弄されるままになってしまったのです。

日を追い月を追ってさらに上昇し続ける円高基調は外国製品の輸入にとって非常に有利に働きました。ファッション性の高い先進国製の高級製品から途上国製の一般品に至るまで輸入製品が国産製品とともに消費市場に溢れかえって、日本は繊維製品の慢性的な過当競争市場と化してしまったといっても差し支えありません。

増産によって生産コストを合理化しようとしても操短や多くの規制のために設備人員が思うように稼動出来ず、増販によって受注量の拡大を図ろうとしても過当競争による損失のリスクが高くなるだけとなってしまいました。

結局コストは高い水準で硬直化したまま、需要市場は絶えず値下がりや倒産リスクの不安に脅かされる構図が出来上がってしまったのです。

(2):海外生産

高コスト体質を解決する対策のひとつは労働費の低廉な海外に生産を移転させることでした。

朝鮮事変直後日本の毛織物工業は羊毛の産出国を対象に将来の人件費上昇によるコスト増を見越してブラジル、アルゼンチンに工場進出を行ないました。

オイルショック前後から若年労働者の採用が困難となりその上採用費用が高騰して来たので、低廉な労働加工費を求めて韓国、台湾、香港等の現地企業との合弁や技術提携あるいはマレーシア、フイリッピン等に対する新規投資等による設備の移動を行い内地向け製品の生産補充を試みました。

3回目の海外生産は1980年代後半期に入ってからです。日本が世界一の経済大国に成長してゆく中で、逆に毛織物工業が高コスト体質のため円高潮流の中に沈潜せざるを得ない危機状態を打開して企業存続をはかるためには、低廉な労働工賃による海外生産しかないというせっぱ詰まった合理化対策でした。

豪州に小規模牧場を設立して牧羊事業に参加しようとする企業も現われました。さらに日本国内の公害規制を避けると同時に労働集約性の強い毛撰、洗毛、梳毛工程を現地の加工基地で行なうことによって原料確保と加工コストを合理化する狙いで多くの企業進出や工場建設が進んでいます。

冷戦構造が崩れて政治的なリスクが遠のき特に中国が資本主義的経済体制への転換を明示してから、欧米各国、韓国、台湾の後を追いかけるように日本の毛織物工業やアパレル工業がウールに関するほとんどの製品を中国各地で生産するようになり近年ますますその比重を高めています。

現在中国で生産されるウール製品は原則的に日本の国内市場に持ち帰る委託生産方式をとっています。したがって海外生産に委託される工程部分はその分だけ国内の設備人員が空洞化するわけです。

結局高コスト体質を解決するための海外への生産移転は、1世紀以上もかかって作り上げた日本の毛織物工業の組織構造を分解する作用となってしまったのです。

(3):省力対策

高コスト解消の目的で海外生産と同時並行して日本の毛織物工業が最優先の課題としたのはいわゆる「省力対策(人べらし)」でした。明治時代からの綿織物工業に次いで多数の労働人口を抱えて来た伝統をかなぐり捨てて、若年労働者や中高年層の雇用人員を急激に削減しながらパートタイマーや契約社員に雇用形態を転換させてゆきました。

省力対策は生産工程別に見てまず梳毛糸、梳毛織物部門を経営の中軸に据え、最も労働集約的な作業の必要な毛撰から洗毛、梳毛、染色、紡績へと進み、製品別に見て需要後退が見込まれ副次的な収益部門と考えられる手編毛糸、毛布、フェルト、紡毛織物等に及んでゆきました。

該当部門の直接生産要員も生産技術や設備を保全管理する間接要員も早期退職、配転、出向、転籍等によって極端に人員を圧縮し、とにかく加工コストの削減を優先させながら既成の生産組織や作業運営を全面的に再編成してゆきました。

まず海外や外部企業へ生産能力を移転すると同時に老朽設備の廃棄と革新型設備の導入を伴った工場閉鎖と移転、解体あるいは分社等々がはじまって、生産能力の集約化と分散化とが目まぐるしく展開されたのです。

大資本の紡績企業で行なわれた省力対策に比較すると織布・染色整理業の省力対策は実勢にまかされた形で進行してゆきました。織布染色整理企業の大部分は中小企業のオーナー経営が多く、市況対策に盛り込まれた企業独自の判断により、自主廃業、倒産あるいは系列化の動きの中で人員削減が行なわれたからと思われます。

目前の構造的不況の嵐を乗り切ってゆかねばならない現実的な要請に対して、海外生産と省力対策を同時進行させながら効率的な生産を行わなければならないのですから、日本の毛織物工業は、企業存続のため実にディレンマに満ちた「苦渋の道」をたどるしか仕様がなかったのです。

(4):20世紀の毛織物工業

1950年代後半期米国の毛織物工業は北東部の発祥の地を捨てて労働工賃の低廉な中南部に工場移転をはじめました。

アパレル工業は国際取極めによって輸入抑制がはじまる頃から、安くて良質な日本製毛織物の代替品を求めて韓国、台湾、香港等を転々としたあげく現在中国、イスラエル、南ア等世界中の生産市場から毛織物を購入したり縫製委託生産を行っています。

1994年から実施された北米自由貿易協定(NAFTA)はカナダ、メキシコを米国の特別委託加工基地として指定し、米国産原糸を使用した毛織物や縫製品の輸入に限定して無税措置を構じています。したがって次第に中国や東南アジア地域から海外生産の重点を北米に移動させている最中です。

イタリアの毛織物工業は冷戦当時から安い労働工賃を求めて東ドイツをはじめとする準共産圏、アフリカ北岸諸国、トルコ等に毛織物の海外生産基地を拡大してきました。中国市場には日本よりも随分早くから縫製加工基地を設立して世界中の消費市場を対象とする供給拠点としています。現在イタリアは高級毛織物あるいはブランド衣料製品の海外生産に関して世界で最も優れた活動を行っている国となっています。

1980年代日本経済はバブルの中を転落してゆきました。毛織物工業が4半世紀も続けてきた減量経営の結果、ファッション性の強い欧米製品と東南アジア製の一般普及品との二極分化がますます鮮明となってゆく衣料消費市場の中で国産品の位置付けは両方の谷間に埋没しかかっています。

1991年原毛の支持価格制度は廃止され羊毛市場は再び自由化されて市場原理が働く時代がやってきました。創業以来日本の繊維産業をむしろ保護的に規制してきた設備操業に関する法律措置もようやく20世紀中に解消されることになりました。

現在ウールと私達日本人を取り巻く汎太平洋地域では世界中の毛織物工業が豪州からウールやトップ等の原料を購入し、中国を中軸とする東南アジアで生産加工を行ない、当然日本も欧米もその中に含まれる世界中の消費市場にウール製品を供給しているグローバルな分業体制が急速に出来上がりつつあると考えても差し支えありません。

生産規模の拡大から高コスト解消への「転換の4分の1世紀」を経て、私達日本人はいつの間にか汎太平洋地域における新しい分業体制の中に組み込まれているのです。21世紀を目前にしてウールと私達日本人はこの新しいグローバルな「枠組み」の中でどのような役割を果しどのような産業構造を編成するのか選択し直す時期を迎えているのではないでしょうか。

著者:藤井一義(マネジメント・コンサルティング取締役)
1924年大阪府生まれ。1948年東京大学経済学部卒業とともに日本毛織に入社。主として輸出毛織物畑を歩き、アメリカ向け毛織物輸出の全盛期には伊藤忠商事の堀田輝雄氏(前副会長)とともに、輸出業界のリーダー格として活躍。取綿役に昇格後、1975年 ニホンケオリアルへンティナ社長、1979年 中嶋弘産業(現ナカヒロ)社長なども歴任。中嶋弘産業退職後、1991年から(株)マネジメントコンサルティングアソシエイツのシニア・アソシエイツとして、コンサルティング・ビジネスに取り組む。