【羊毛講座5】ウールとアメリカの人々【藤井一義】

3:アヴァレッジ・アメリカンと既製服工業

独立革命(1783)と第二次独立革命と言われる米英戦争(1812〜1815)によってアメリカ合衆国はイギリス依存体制を脱出しましたが、それでもなお資本主義後進国として旧大陸からの影響を貪欲に吸収しながら、一方では世界最初の民主主義国として旧大陸に少なからぬ影響を与えながら世界史上未曾有のスピードと規模で発展をとげてゆきました。

ちょうどこの時期イギリスの産業革命(1780〜1820)は最高潮に達し、旧大陸ではフランス革命(1789〜)の嵐が吹き荒れて封建制度による全ての旧体制が轟音をたてながら崩れ去る時代がはじまっていました。

建国の当初ハミルトン財務長官はアメリカ合衆国の国民経済建設のためには、均衡のとれた産業構造を構築する必要があるという信条にもとづいて、製造業を基軸として産業の多様化をはかる「工業主義」を提唱しました。「工業主義」はアメリカ合衆国の産業社会を一貫して流れる理念となって現在も星条旗と共に高く掲げられています。(註1参照)

新旧両大陸にまたがる変革潮流の中で合衆国の毛織物工業や衣服の生産にたずさわってきた企業家や職人達が、一般市民の着る紳士服を工業生産にのせて安くそして大量に供給することは世界中で誰も経験したことのない全くの新規事業でした。

彼らが一般市民のほしいと思う紳士服をどんな衣服としてとらえたか。またそのような紳士服を今まで常識と考えられてきた注文服生産方式から既製服生産方式に転換して「工業生産」することは一体どのような相違点や意味があるのかについて検討してみたいと思います。

(1)パリ市民と既製服

(註2参照)
フランス革命で活躍した主人公はパリ近在の農民と市内に住む仕立て職人等の下層労働者で、彼らは「サンキュロット」と呼ばれていました。彼らは王侯貴族やブルジョア層が着用している「キュロット」(脚にぴったりした短いズボン)を仕立てることはできてもはくことが許されない被支配階級だったのです。

革命に成功したパリ市民達は、よれよれに着古した長いズボンを脱ぎ捨てて広場のマーケットに並へて安い値投で売られている既製品「キュロット」をはいてパリ市中を自由に歩き回れるようになりました。

女性達も革命の最中は活発に行動できるようにスカート丈を短くしたと言われますが、すぐまた派手で贅沢な服装に戻ってしまったようです。

革命によってパリ市民達は今までの注文服に比べると何分の一と言われる安い既製紳士服をマーケットで自由に選び自由に着られる権利を獲得しましたが、彼らが手にした既製服はブルジョア層が着用しているエレガントな注文服と全く同じ形をした「アビ」(モーニング調の上着)と「キュロット」だったのです。

安い価格で入手した既製服のアビやキュロットも元をただせばウールを刈り取る農民や毛織物を織り既製服を仕立てる職人達の手によって作られたものです。

結局彼らは安い価格で卸さなければならないために、抜け目のない商人達の支配下におかれ織布作業や裁断縫製作業の中に下請制度による低賃金長時間労働がまたしても温存されてしまいました。

注文服も既製服も価格の差があるだけで、同じ型紙を使い同じ裁断縫製作業を行った上に革命後も生地屋と仕立屋との対立が続いたので、パリの衣服市場は高級品を扱う注文服業界と一般大衆品を扱う既製服業界に二分され、小売店舗までが高級店と一般大衆店との対極構造を作り上げてしまいました。

結果として毛織物工業も服飾業界も分業とは言え歴史的な分立状態を続け、服飾業界も注文服(オートクチュール)を項点とした重層構造が出来上がってしまったのです。

(2)アヴァレッジ・アメリカンの想定

毛織物工業や衣服の生産に関連する企業家達は衣服の工業生産を考える時仮説に基づいた想定を行いました。

彼ら自身も移民出身で今続々と上陸してくる移民達と同様「新大陸へ来た人」の境遇に立った経験があること、また自分達は今紳士服の生産供給者側に立っているが「身の廻り品」(靴、帽子、靴下等)や「食料」「住居」等の生活必需品については消費者側の立場にも立っていることから、「ごく普通のアメリカ人」:Average Americanと言う仮説の人物像を設定したのです。

“Average”:「平均的な」という言葉通り「ごく普通のアメリカ人」とは人種(南北戦争以前の当時主として白人を対象としていましたが)、国籍、職業、言語、教育はもちろん、合衆国へ移住する前の身分家系等の社会的背景には一切関係ありません。

彼は金持ちでもないし貧しい人でもありません。そして浮浪者とか犯罪者でもない世間並みの仕事をしている人で、改まった言い方をするなら“健全な常識と体格をそなえたアメリカ市民”とも言える人物像です。

生産者対消費者あるいは売り手対買い手と言った対決関係の上で考えるのではなく、できるだけ偏見を避け独断に陥らないためにAverage American:ごく普通のアメリカ人に対して色々な質問を投げかけて仮説を立て、その後実際に起こってきた客観的事実と照らし合わせながら検証することによって公正な意見を組み立ててゆく発想方法をとることにしました。

(3)アヴァレッジ・アメリカンと紳士既製服

まず紳士既製服はどんな紳士服でないといけないかと言う設問です。彼(ごく普通のアメリカ人)は戸外に出て労働まではしないが活動しますから身体を保護し行動に楽な衣服つまり社会生活のための必需品として実用価値を備えていることを条件とします。例えば下着、靴、帽子のように。

次に紳士既製服はどんな生産供給の仕方でないといけないかと言う設問です。彼(ごく普通のアメリカ人)は、まず経済的に負担にならない低廉な価格で提供され、出釆るだけ現物を眼の前で選択できるようにある程度数量ロットをまとめて提供されることを条件とします。例えば馬車に積んで行商人が巡回してくるように。

以上の2条件から彼(ごく普通のアメリカ人)は注文服をまったく敬遠してしまいました。19世紀当初は注文服と既製服とを併行して生産していたニューヨーク市の縫製業者達も19世紀末頃には圧倒的(85%以上と言われます)に既製服中心となりました。

19世紀に入ってますます人口が集中化してゆく都市の消費者、あるいは産業資本の活発化に伴って所得と生活水準が上昇して消費の多様化を進めてゆく消費者に対して、彼(ごく普通のアメリカ人)は次のように答えました。

来季の紳士服はこのような色相の、このような厚さの毛織物を好んで選択するだろう。そして普通の体格の人が着て不自然でない大きさとスタイルの紳士服を、このくらいの価格で求めるであろうと想定しました。

この想定を基本に毛織物の種類や生地の重さあるいは色柄等の標準となる見込み要素を作成し一着当たりの標準要尺と販売予想人員を予定すれば毛織物生地の所要量が算出されます。

紳士服の販売時期を予定すれば(大体期日は決まっていました)それにあわせてウールや素材原反や副資材の仕入れ、既製服製造に必要なコスト、雇用人員等が計算できて販売予定総額や単価も決まり今日の生産販売計画が一応立案されたわけです。

(4)アヴァレッジ・アメリカンの検証

彼(ごく普通のアメリカ人)による見込み要素を消費者側から検証すれば既製服の品種、色柄、スタイルはごく無難なその意味で平均的な範囲内に固まってくるかも知れません。

しかし10人のうち6人でも7人でも、まずまず満足する程度の品種や品質の既製服を市場に提供すれば必ずある程度まとまった購入量につながるだろう。

それが彼(ごく普通のアメリカ人)の求める紳士服の標準的な品種品質であろうと言う仮説を立てたのです。

従って特別に個性的な選択にこだわる人はパリやロンドンヘ注文すればよいと割り切りました。寒い冬が来るのにいつ出来るか分からない注文服を待っているよりも、手軽に入手していらいらしない方を彼(ごく普通のアメリカ人)は合理的選択と考えるに違いないと思ったからです。

もし想定した見込み要素に外れた結果が出たら何かが欠落している理由なり要素があるはずだから、その点を更に掘り下げて追及することによって次の季節には見込み要素を変えたり追加修正することとしました。

彼(ごく普通のアメリカ人)が求めるものを常に需要の中軸において考えながら衣服、敷物、家具、住宅等の日常生活用商品やサービスの選択をすることが一般化してゆきました。

更に需要の中軸となる想定要素に集中して設備を近代化したり合理化を進めることによってその部分を拡大してゆけるという見通しが成立してくると、いよいよ大量生産、大量販売の可能な巨大市場が形成されます。

現実に既製服市場は19世紀半ばから飛躍的発展を遂げてゆきました。

1818年ヘンリー・S・ブルックスと言う実業家がニューヨーク市に英国製毛織物を使って注文服と既製服を併行して生産する事業を開始しました。彼は英国の伝統的な紳士服スタイルからアメリカ人独自のスタイルを創り出し活発な産業資本家として名声を博するに至ります。

彼の経営していた店舗工場は4人の子供に受け継がれ「ブルックスプラザース」の名称で高級衣料専門企業として、現在日本市場を含めて世界的な成功を続けています。(註3参照)

(5)アメリカ産業革命と既製服工業

アメリカ産業革命はエリー運河の開通(1825)から始まり既に開発されていた蒸気船の運航によって北部大西洋沿岸地域から南部市場へ、ミシシッピー川とエリー運河によって北東部から中西部へ水上交通網が発展し巨大な生産消費市場がもたらされることになりました。

既製服工業にとっても北東部の生産市場と全州の消費市場とが近接することとなり、さらにゴールドラッシュ(1848)に象徴される人口急増によって衣料消費市場が爆発的なブームを呼びますます既製服生産供給力の拡大への期待が高まってゆきます。

紡績織布工程に比較して保守性を残し近代化が遅れがちな既製服工業に対して大きな衝撃を与えたのはアイザック・M・シンガーによる本縫いミシンの開発でした(1851)。手縫い作業の機械化を目的に16世紀末頃からイギリスで研究されてきた靴、馬具等皮革製品用ミシンが合衆国でようやく完成されたのです。

1851年ロンドン万博でアメリカ製ライフル銃が「互換性生産」の典型として紹介され、公の前でライフル銃が部品に分解され再び組み立てられて旧大陸各国の話題を独占しました。

シンガーの開発したミシンは家庭婦人や未熟練工が従来から行ってきた手縫い作業を機械化して生産性を何倍にも向上させたばかりでなく、既製服の生産でもライフル銃と同じように部品生産を可能にし「互換性生産」を実現する画期的な開発になりました。

ひとりの縫製工が部品から完成品まで一着ずつ縫製していた協業方式を変え、部品を専門に縫製する工程と縫製された部品をまとめて完成品に組み立て縫製する工程とに分業し縫製工一人当たりの製品化着数を飛躍させたのです。

ミシン開発を契機にして19世紀中ばから20世紀にかけて、原料生産から既製服生産までが一貫して近代化されアメリカ繊維産業の黄金期とも言える時期を迎えることになりました。

この繁栄の影に隠れて、かつて革新紡績機や織機の導入が商業資本に利用され低賃金長時間労働が下層労働者に強制されたのと全く同様の事情が発生してゆきます。

本縫いミシンが既製服工業に積極的にに採用されるに従って生産性向上分の利潤は資本家や経営者側に吸収され、工場や家庭内の婦女子に対してまたしても過酷な労働条件が押しつけられることになりました。

独立革命後ハミルトン財務長官が提唱した工業主義は、アメリカの人々が既製服を何とか工業生産に乗せようと願った段階から産業革命期を経て「既製服でも機械で生産できる」と確信する段階まで昇華してゆきます。
資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)