【羊毛講座5】ウールとアメリカの人々【藤井一義】

3:“古き良き時代”のフィナーレ

労働組合としては受け取る賃金をできるだけ多くするため、職能別の賃金基準を高くし、しかも平等でなければ職能別組合の意味がありません。

資本家側は支払う賃金をできるだけ少なくするため、低い基準であれば企業ごとに不公平でも仕方のないことです。したがって労働組合としては職能別出来高払い制を維持するためカテゴリー制を認めたと思われます。

カテゴリー制はまずメーカー自身を枠にしばりつけ、次に取引関係にある小売店舗の位置付けや製品の小売価格まで格付けし、消費者に対して一定の格差をもった小売価格帯を形成させる根拠を与えました。

このあたりに自由競争を市場原理とするアメリカの近代資本主義社会の現実の姿を見ることができます。

私達は紳士用スーツメーカーが“古き良き時代”の生産消費両市場に対してカテゴリー制によって築いた価格設定権を20年間も維持していた歴史的な意味を改めて考えねばならないのではないでしょうか。
団塊の世代が世界を変えた

1967年のインディアンサマーは“長い暑い夏”と呼ばれ、ニューヨーク市やワシントン市では街路の屑篭に放火して走り回るヴェトナム反戦運動の人々を追って警笛のサイレンが鳴り響き市民達は眠れぬ夜を過ごさねばなりませんでした。

戦争の深刻化とともに合衆国の労働生産性や技術革新のスピードが鈍化し始め、パックスアメリカーナの輝きが失われるようになると、経営者達はコスト合理化に加えて多品種少量生産を望む消費市場の多様化志向をどうやって受け止めるかの試練を受ける時代に入ってゆきました。

やがて団塊の世代が市場に登場する頃になると“古き良き時代”の紳土用スーツメーカーを支えてきたカテゴリ一制も、徐々に自壊作用を起こさざるを得ませんでした。カテゴリー制は何故自壊せねばならなかったか。カテゴリー制によって保たれた秩序は誰の手にゆだねられ、どんな方向に進んでいったのかを検証して“古き良き時代”の終幕を引きたいと思います。

(1)紳士用スーツメーカーの苦悩

1960年代後半頃から若い世代や婦人層の関心が小型車に集まり自動車工業は急遽小型車用に生産システムを変更し、したがって大型車用鋼板を供給してきた鉄鋼工業も少品種大量生産型から多品種少量生産型ヘシステムを移行せねばならなくなりました。

さらにフォルクスワーゲン等のヨーロッパ型小型車の輸入が活発になり生産、消費両市場で新旧大小が入り乱れる一種の困惑状態が出現したのです。

20世紀合衆国は世界第二のウール生産国からメリノウールは完全に豪州からの輸入国に転落していました。

国産羊毛では肌理(きめ)の粗い固い毛織物しか生産できず細番手使いの薄い毛織物は輸入関税を払ったメリノウールを使用しなければならなかったので、ウール生産事情の変化が国産毛織物や紳士用スーツの加工度と製造コストの上に強い影響を与え続けていたのです。

自動車の普及と家電製品の進歩によって男性達はまず帽子をかぶらなくなりオーバーコートを脱ぎ捨てました。団塊の世代はフォーマルな紳土用スーツを嫌って編物の替上者や替ズボン等のカジュアルスタイルヘと進み、素材から製品まで消費志向の軽量化多様化はどうにも止められない風潮となってしまいました。

紳土用スーツメーカーも自動裁断機や新型特殊ミシン等を導入し自動化省力化による生産性上昇に重点を置いて経営努力を続けましたが、紡績や編織工程の革新型高速機械設備に比較すると生産性はどうしても劣らざるを得ませんでした。

紳士用スーツが伝承的なフォーマルスタイルから抜け出さない限り多品種少量生産をそう簡単に実現できないことは、既にカテゴリー制をつくる歴史的経過で立証された通りだったのです。

(2)日本製毛織物が果たした役割

二次大戦後史上初めて合衆国に上陸した日本製毛織物は1970年代初期までの間、紳士用スーツメーカーとともに“古き良き時代”のアメリカ市場を最も華やかに飾りました。

最盛期1968年の輸出量は3400万ヤードを上回りスーツ換算1000万着にのぽります。当時の紳士用スーツ(ウール50%以上)の年間生産は約1700万着から2000万着前後で終始しており、ニューヨーク市の昼間人口が1000万人に達したといわれた時期ですから、日本製毛織物がいかに大きな市場シェアを占めていたかが想像できます。

アメリカ市場進出の理由は輸出実績に応じて原毛割当を受ける報償リンク制によるものですが、日本の毛織物工業が質量ともに世界に誇る紳士服市場に対して一斉に注目し、合衆国側も加工度と生産性を上げるために良質廉価な毛織物を求めていた紳士用スーツメーカーの要請が強く吸引したからにほかなりません。

日本製毛織物は高級メリノウールを使った細番手薄地製品で、ヨーロッパ製や国産品では見たこともないシルキーな高級感があり、仕立てあがったスーツはアヴェレッジアメリカンの心を充分魅了してしまいました。

さらに品質管理が行き届いている上イギリス製品と国産製品の中間程度の価格でしたから、軽量化多様化に対応しようとしていたメーカーにとって品質コスト両面から願ってもない毛織物素材が与えられたことになったのです。

日本製毛織物が合衆団市場に登場してから寡占的立場に立っていた少数の紡績業者は政治家や労働組合を動員して輸入制限運動に狂奔しました。1971年「日米毛合繊取極」が締結され遂に日本製毛織物は市場から姿を消してしまうことになってしまったのです。

日本製品や途上国製品の“追い上げ”を国際協定によって完全に排除した彼等は宿願の“国内市場独占の野望”を達成し“古き良き時代”の再来を期待しようとしました。しかし紳士用スーツメーカーだけは加工度の高い毛織物やスーツを求めて海外市場に生産基地を移動しなければなりませんでした。

懸命な努力にもかかわらず日本製毛織物によって満たされていた紳士用スーツの加工度と生産性の再現は到底不可能でした。遂に彼等の生産体制の中には空洞化の穴がポッカリとあいてしまったのです。

(3)カテゴリー制の矛盾

1960年代の終り頃になるとカテゴリー制の中にひそんでいた矛盾が次第に現われてきました。ちょうどレストランが「四つ星」「五つ星」と格付けされるように、経営形態が変わり名称が変わらない限り一度押されたカテゴリーの烙印とそれに相当する小売価格帯(レストランでいえばメニューに記された価格表)から逃れられない枠となって固定してしまうからです。

カテゴリー制は枠を越え小売価格帯の上限を突き破ることを絶対に許しませんでした。したがって他社と競争して生産量や収益を上げようとする努力は、メーカー同士のような横の方向かあるいは下位に立っている毛織物業者等の方向にしか働きませんでした。

特に加工度に格差の少ない大衆向け製品を製造するNo.1やNo.2同士の生産競争は急速に“プライスマーケット”化を促進してゆきました。

アメリカの工業社会は人件費上昇によるコストインフレーションによって常に経営の根底が脅かされていました。1960年代に入って、インフレーションはさらに悪性化し紳士用スーツメーカーは小売価格帯が製造コストを不当に低く抑制して設定されるため生産量が伸びず収益が困難になってゆくのに不満を募らせてゆきます。

賃上げ率が必ずといってよいほど物価上昇率よりも遅れてしかも低く決定されるため、実際の製造コストと小売価格帯との間にはどうしても“遅行のズレ”と“歪み”を増幅させるのが悪性インフレーションの実態でした。

さらにカテゴリー制の根拠にした製造コストの考え方はメーカー本位の都合で労働費用を中心に置くあまり、当初から原料や素材の相場価格等の変動要素を充分考慮していなかったようです。

日本製毛織物の卸売価格がNo.1もNo・4もほぼ同じ価格水準で販売しなければならなかった事情や輸入毛織物と司産毛織物の原価が大きく違うのに、小売店舗ではカテゴリー別にほぼ一線に並んだ小売価格帯で販売されていた事実から分かるように、いかにウール原料や毛織物の相場価格が無視されていたかを示しています。

本来自由競争を尊重するアヴェレッジアメリカンにとってカテゴリー制による格付けは、基本的になじまない制度であったのにかかわらず“古き良き時代“の紳士用スーツメーカーがいろいろ矛盾する要素をカテゴリーと称する秩序枠の中に閉じ込めて、自由競争をぎりぎりまで規制しながら長期間存続したのは非常に不思議な現象といえます。

(4)カテゴリーNo.“×”の出現

60年代も終わりに近づいて繊維交渉の経過がタイムズ等の一般紙をにぎわせるようになり、紳士用スーツメーカーと日本製毛織物販売業者がさらに一層血眼になってビジネスチャンスを追いかけていたある日、それまで聞いたこともない「ニューカマー(新規参入者)」が市場に現れました。

彼等は早速“No.X”というカテゴリー名を与えられたのですが、桁外れの指定価格と購入数量を旗印に掲げてスーツメーカーの前に現われましたから、そのインパクトたるや強烈なものがありました。やがて実態は当時新興の大型小売店として主に郊外に展開されていた量販店であることが分かりました。

紳士服市場で彼等が“ニューカマーNo.Ⅹ”から“カテゴリーキラー”と呼ばれるようになったのは、彼等がカテゴリー制の本拠から見るとあらゆる意味で遥か遠くの小売流通戦線から常識はずれの大型武器を携えて、突然襲ってきた野武士軍団だったからです。

彼等は従来の取引慣行を全く無視して、まず紳士用スーツメーカーに対して破格の購入価格を指定し、次に桁外れの調達数量を提示しました。一品種ないし二品種の毛織物にしぼり発注ロット1000反から2000反(スーツ換算約2万着から5万着)の厖大な数量が指定価格の代償となる生産条件でした。

生産機能が団塊の世代のスーツ離れや消費の多様化傾向に対してどうにも対応できなくなっていること、日本製毛織物とともに今や過当競争の真っ只中に呻吟して小売価格帯も機能しなくなっていること等を充分調査した上でカテゴリー制の中に居座っているスーツメーカーの決断を迫ったのです。

すベての条件は紳士用スーツメーカーに受け入れられ彼等のプロジェクトは成功しました。この取引で紳士用スーツメーカーは毛織物購入と縫製仕立てを受託する下請業者的位置に引きずり降ろされてしまいました。

その時点からカテゴリー制は音を立てて崩壊しはじめたのです。

(5)“古き良き時代”のフィナーレ

「止むを得ぬ」といいながら、結局No.Xの要請に応えた紳土用スーツメーカーも毛織物販売業者も従来の取引系列や取引形態とは全く離れたカテゴリー制の枠外市場で行動したことは、彼等を“カテゴリーキラー”と呼びながら自らその渦中に身を投じたことになります。

“カテゴリーキラー”の与えた衝撃は小売流通市場から繊稚工業の伝統を代表する紳士服市場に対して“スーツ生産”という成果を代償条件として提供することによってまず登場の資格を獲得しながら、カテゴリー制を破壊しつつ小売価格帯を設定する力をほぼ掌中に収めてしまったことです。

結果として、メーカー主導のカテゴリー制に代わって生産市場と消費市場との統合を量販店主導で進めることになってゆきますが、紳士用スーツ全体の加工度と生産量は急下降してゆくとともに、アメリカ市場の“古き良き時代”はとうとうフィナーレ(終幕)を迎えることになったのです。

(筆者註:カテゴリー制に関する記述は“古き良き時代”の紳土用スーツメーカーの経営者たちの口述内容によって編輯したもので、明確な資料に基づいたものではないことをおことわりします。)

著者:藤井一義(マネジメント・コンサルティング取締役)
1924年大阪府生まれ。1948年東京大学経済学部卒業とともに日本毛織に入社。主として輸出毛織物畑を歩き、アメリカ向け毛織物輸出の全盛期には伊藤忠商事の堀田輝雄氏(前副会長)とともに、輸出業界のリーダー格として活躍。取綿役に昇格後、1975年 ニホンケオリアルへンティナ社長、1979年 中嶋弘産業(現ナカヒロ)社長なども歴任。中嶋弘産業退職後、1991年から(株)マネジメントコンサルティングアソシエイツのシニア・アソシエイツとして、コンサルティング・ビジネスに取り組む。