1:東方ルートの旅
人類文化発祥の地メソポタミアで紀元前3000年頃から、羊乳や羊肉とともに真っ白いウールを出来るだけたくさん収穫するために牧羊の仕事が作り出されたといわれています。
やがていつの日か、栄華を誇る「羊の国」バビロニアを後にして、羊と私達はさらに清らかな水と豊かな草原をユーラシア大陸に求めて遊牧の旅に出て行きました。
西方ルートをとった羊と私達は地中海沿岸にそって、何世紀もの時間をかけ血のにじむような困難を乗り越えて北アフリカやヨーロッパ大陸全域を西へ西へと進み、ついに大航海時代を経てアメリカ新大陸にまで到達しました。
さらに南半球の3大大陸(アフリカ、アメリカ、オーストラリア)に原毛市場を展開し、スペイン・メリノ種の開発を中心とした北半球の工業化によって今日見られるような衣料文化と資本主義市民社会を構築しました。
一方東方ルートを辿った羊と私達は、海原のように緑一色の草原が広がる黒海沿岸を経て「黄金の羊」がいると言われたコーカサスから、中央アジアの山並みや平原を越え中国大陸の東北端にまで「陸路の旅」を続けました。
何千年という長い歳月をかけ、今まで見たこともない民族の人々と交流し既に各地点に点在していた土着羊と交配を重ねながら、やっと辿り看いたモンゴルの地で東方ルートの旅を終えることにしました。
モンゴルは中央アジアの頂点に立つような地勢で、東側は大興安嶺、西側はアルタイ山脈で仕切られ、北側はハンガイ山脈をゆるやかに囲むように草原ステップ帯がパイカル湖につながり、南側はゴビ砂漠を越えてチベット高原や中国大陸に連なっている茫漠たる広がりの中に位置しています。
やがて東方ルートの跡を通って中央アジアや近東の人々が次々に東方に向かい、逆に中国や東アジアから多くの旅人や兵士達が西方を目指して、いわゆるシルクロードが出来上がってゆきました。
その意味では、東方ルートを辿った羊と私達はアジアと西欧を結びつける「シルクロードの開拓者」としての歴史的役割を果たしたと言えるかもしれません。
しかしそのようなことよりも、人類の歴史とともに古くから今日まで営々として続けられているウールと私達の関係をモンゴルの遊牧生活を通して原点から考えてみたいと思います。
2:遊牧の営み
(1)移動牧羊
モンゴルの遊牧生活は移動に始まり移動に終わります。白一色に覆われた山沿いの「冬営地」で旧正月(新暦1月末頃)が過ぎると羊の出産を迎える「春営地」に移動し、太陽が日増しに輝き茶色の大地が一斉に緑色に変わる5月から6月にかけて水辺に近い草原の真っ只中に「夏営地」を移動します。
羊も私達も身体いっぱいに太陽光線を浴びながら「乳搾り」「種付け」「去勢」「毛刈り」等の作業に明け暮れる、一年で最も活動する季節を「夏営地」で過ごします。
8月末頃には「冬営地」に近い「秋営地」に移り冬の用意に入ります。すっかり銀色に覆われた草原で「草刈り」「秋の毛刈り」「フェルト作り」「越冬用の食糧準備」等を済ませ、12月には山裾に近い、少しでも寒風を凌げる「冬営地」に移動し、羊も私達も長くて厳しい越冬生活に入ります。
アルタイ山脈から吹きおろす北西風になんとなく軽さと明るさを感ずる頃になるとモンゴル一帯の大自然が動き出します。川の雪解け水が勢いを増し平原一帯に若草が芽吹いてくると、母羊は川の水音にひかれ若芽の香りに誘われて仔羊をうながし、ゆっくりと群れを作りながらぞろぞろと歩き出します。
まず四季が移ろい羊の群れが水と草を求めて移動して行く後を追うように、いつも羊の群れに従って私達は他の家畜を連れて「ゲル」(宿営地に作る居住用天幕)を移動させて行きます。こうやって移動のために移動を続けて行くのがモンゴルの遊牧生活の基本型です。
ローマ時代から牧羊の形式は二分されていました。権力者や寺院が羊も私達も(当時は「羊飼い」という奴隷的存在でしたが)綜画された牧場の中に囲い込んで、放牧しながら飼育される羊を“ESTANTES”と呼び、羊が群れを作る習性を利用して綜画されていない広大な原野の中を、放牧しながら移動する方法で育てられた羊を“TRANSHUMANTES”と呼んでいました。
現在でもスペイン、アルプス近辺、イタリア中南部では涼しい山麓の草原の「夏営地」と暖かい平原の「冬営地」との間を季節ごとに移動(中には「乳搾り」や「乳製品」を作る職人まで引き連れているようです)しています。
モンゴルにおける遊牧はまさしくこの「移動牧羊」を無眼に広がる大自然の中で原型のまま行っている訳です。
(2)遊牧の目的
羊を飼育する直接目的は羊乳、羊肉、ウール、羊皮を生産して食料、衣料、生活資材等に使用することにあります。しかし一般的な牧場経営による牧羊事業は、羊を飼育し生産する場所と私達の生活する場所とを完全に分離してしまいました。
羊が羊乳、羊肉、ウールとともに商品化され毛糸、毛織物あるいはフェルトや皮革の生産が工業化された結果、私達の生活する場所はむしろ消費市場となってしまったのです。
モンゴルの遊牧社会では羊と私達が同じ場所で生活しながら飼育生産が行われて、決して分離されることがありません。羊は家畜と呼ばれる商品でもなければ私達の所有物でもないのです。
羊も山羊、馬、牛、ラクダも大自然の生成サイクルの中で私達とともに毎日同じ様式で生活し一緒に生存している“生命あるもの”、あるいは家族の一員と言ってもよい個体認識の強い基本概念がモンゴルには厳存しています。
次の羊の飼育目的は羊種の改良増殖にあります。しかしモンゴルでは羊の飼育目的を自然のままの状態が長く豊かに続くことに置いています。
アジア種と呼ばれる羊種の茶褐色や黒色の混じるウールよりも真っ白なウールや臭みのない羊肉がたくさん収穫できることを祈願して作業、行事や儀式のたぴに「祈り」を捧げ、それが終われば感謝の意味の祝福を行います。
しかしその「祈り」は健康な羊や白く輝くウールが私達の周囲にたくさん存在するようになることが非常に喜ばしいことであり願わしいことであるからです。
羊毛相場が暴落すると生育した羊を大量に屠殺し供給量を調節して市場価格を維持したり、ウール増産の目的でごく少数の種オスだけを残して生後間もない雄仔羊をラムの缶詰工場に送り込んでしまう考え方とは随分遠く離れた羊や家畜に対する観念が支配しているのです。
(3)遊牧の分業
遊披生活の中で打われる労働作業は
①春夏秋冬を問わず毎日必ず行われる放牧に関する作業
②羊群と他の家畜群の飼育成長に関する作業(例えば出産、搾乳、種付け、毛刈り等)
③移動や越冬準備に関する作業(例えばゲルの構築、撤去、草刈り、越冬用「囲い」構築や食料準備等)
④家族世帯に関する行事(婚姻、出産、葬送その他の催事等)が広大な草原で同時に錯綜しながら行われます。
遊牧生活の基本は移動にありますから苛酷な風土と労働作業に耐え得ることが最低の必要条件として課せられます。
つまり羊も他の家畜も四季の変動に応じて限られた時間内に集中的に作業を片づけてしまわなければならないため、労役を提供できるものはすへて労働に参加します。従って出来るだけ設置や移動作業をタイムリーに簡単に行い、出来るだけ携行容易で簡便な用具を使うことは当然です。
遊牧生活は羊以外に他の家畜群がそれぞれ特徴を持った分業的役割によって支えられています。山羊は羊群の先導役として先頭に立って行動します。
馬は馬乳を搾って馬乳酒を醸造し、しきたりの行事や儀式に必ず使用しますが、何と言っても羊の群の誘導には絶対欠くことが出来ません。牛は搾乳、食肉、皮革以外に宿営他の移動に際して運搬用にラクダとともに必ず必要な強力な労働力となります。
早春の一時に集中する羊の出産、種付け、毛刈り等の作業やゲルの構築、撤去、越冬準備のための作業等大勢の労働力を必要とする場合、「アイルを組む」と呼んで別に血縁の有無に関係なく近隣のゲルの人々と巧妙な分業体制を組んで生産単位を構成します。
牛の好きな人は牛群を、馬の好きな人は馬群を世話し、木工の好きな人はゲルの「木枠」を作る等銘々が得意とする労働分野を専門化して協業します。lO歳に満たない幼児でも出産時にはぐれてしまった仔羊の母羊を数百頭もいる、羊群の中から見つけ出してペアにし確実に哺乳させる特技を持って「アイル」を組んでいるのです。
(4)草原を駆けるフェルト工場
8月も終わりに近づくと草原は早くも初冬の色に変わります。風の少ない埃の立たない日、川辺の草原にはモンゴルのフェルト工場が繰り広げられます。まず最初に馬乳酒を空中に撒き、“雪よりも白く骨よりも固く”と祈願する「ヨロール」(祝詞)によって工場の操業が開始されます。
①牛皮を基布にして地面に敷き並べ、その上に「夏毛」(昨秋から冬を経て今年の夏までに成長して刈り取られた比較的繊維長の長いウ一ル)を小さく千切りながら平たく均等に重ねます。
②大勢の男女が牛皮(基布)の両側からウ一ルが固まらないように木製(柳)の棒でとんとん叩きながらウールの「積み重ね」を平たく伸ばして行きます。すると夏毛の「ふとん状」の分厚い積層が出来上がります。
③夏毛の積層の上に「秋毛」(夏に毛刈りした後晩秋までの間に成長した繊維長の短いウール)を薄く平たく敷き並べ、その上を木製棒でさらに叩いてゆくと秋毛の層は夏毛の層の中に沈んでゆくように絡み合って、秋毛の薄い積層が表面を覆うように重なります。
④夏毛と秋毛とが重なったウールの「ふとん状の積層」の上に冷水を撒いて湿気を与えます。牛皮(基布)の両端から相当はみ出る程度の長さ(約3m)の太目で重目の鉄棒を積層の上に置き、棒を芯にして牛皮(基布)ごとウ一ルの積層をほぐれないようしっかり巻いて直径70−80センチほどの「簀巻き」を作ります。
⑤簀巻きがほどけないよう牛皮で編んだ縄を使ってモンゴル独特の「くくり方」で強く縛り、簀巻きの芯棒となった鉄棒の両端をかなり長い牛皮の縄で2頭の頑丈な種オス馬にくくりつけて準備作業を終わります。この時簀巻きは地面の上をごろごろと回転できるように鉄棒の両端には鉄製の環が取りつけられています。
⑥再び馬乳酒を撒き簀巻きや種オス馬にも振り掛けて作業の成功を祈ってからフェルト作業が始まります。2頭の馬は「掛け声」とともにウールの簀巻きを引き摺って草原の向こうに見える丘陵に向かって駆け出して行きます。深秋のほとんど一日をかけて2頭の馬は曳行作業を続けますが、時折止まっては簀巻きをほどいて水を振り掛け積層状態を確かめます。
⑦夕方、馬と簀巻きがゲルの側まで帰ってくると再び大勢の人が寄ってきて簀巻きを開き牛皮(基布)を広げると白色の分厚い(ゲル用として厚さ約7−8c m、幅約2m、良さ約6−7m)大きなフェルト原反が見事に出来上がっています。
⑧そのフェルト原反の固さ(硬度と反撥力)をゲルの乙女の愛くるしい額に当てる儀式によって確かめます。さらにもし平板でないところがあると原反の端を掴んで引っ張ったり、強度についての品質チェックを行います。
⑨その後ゴミ落しや自然乾燥を行い“草原を駆けるフェルト工場”の製造作業を終わります。
フェルト原反は早春の猛吹雪に耐えるゲルの屋根板と側壁として使用されます。小断片は残すことなく防寒用敷物や毛氈となり毛布寝具として使われます。
草原を駆ける工場の労働作業が無事終了し“雪よりも白く骨よりも固い”フェルト原反ができあがった成功を祝福して、その夜は羊を屠りゲルの中では大勢の人が夜の更けるのを忘れて宴会を続けるのです。
3:平原のウール工房
馬を走らせて製造したフェルト原反は草原から宿営地に運び込まれて、いよいよゲルを設営するための建築資材や遊牧生活に欠かせない衣類敷物寝具等の加工作業に入ります。
ゲルの中では食肉の処理や乳製品等の加工も行ないますので、“草原のフェルト工場”に対してゲル周辺の作業を“平原のウール工房”と呼んで差し支えないと思います。
(1):ゲル用建築資材のフェルト
番傘の骨のような屋根木枠と矢来の柵型をした側壁木枠を一本ずつ縛り付け、まず屋根部分をフェルトで覆い牛皮縄で木枠にくくりつけます。次に側壁木枠にそってフェルトを巻き付けるように縛り付けて一応ゲルの構築は終わります。構築所要時間は5−6人で約2時間足らずの簡便さです。
木枠とそれを覆うフェルトのサイズはゲルの大きさ、つまり、そこに住む世帯の人数によって決まります。
高さは居住する人の身長に合わせますが、普通、フェルト原反の幅をそのまま使いますから約2米となります。通常1世帯5−6人標準の冬営地用としてゲルの円周にはフェルト側壁(幅約2米×長さ約5.5米)3−4枚分が必要です。天井の屋根部分のフェルト2枚を合計すると、幅約2米×5−6枚のフェルトでゲル1戸分が賄われることになります。
フェルトの厚さは地域によって約2−3センチから7−8センチくらいまで大きく変動します。定住期間の長い冬期の防寒防風対策が経験的にフェルトの厚さを決めていると思われます。
“平原のウール工房”では「物差し」代わりに親指と人差し指の間隔や「挙(たなごころ)」「肘(ひじ)」「両手を広げた幅」で長さや幅を計測します。
ゲルを構築するためその中で実際に生活する人の身長や人数に合わせて使用資材のサイズを変える考え方は中国大陸を越えて日本に上陸し、大昔の家屋は家長の身長に合わせて柱の長さを加減したと伝えられます。「一咫(ひとあた)」あるいは「一尋(ひとひろ)」と呼んで大工、指物師、あるいは漁師等が材木の長さや海の深さを示す習慣が未だ残されているのです。
(2):毛氈づくりの女性達
モンゴルの女性達は昼間男性達に劣らぬ労働を続け、夜間貧しい灯の下で衣服、敷物、寝具等を手作りしながら、狭くて暗いゲルの中を「安息の場」にしようと努めています。移動の最中でも彼女達はいつ眠るのか分からないくらい、実に多くの時間をウール工房の作業に割いているのです。
中央アジアの遊牧民トルクメン族に伝わる諺に“馬のフェルトが良ければ良いほど妻の愛情がある”という言葉があるそうです。馬に乗って走りながら男性的な作業で作られたフェルト原反が、ウール工房の女性達の手で、春に戯れる仔羊や夏の草原を彩る花のような毛氈や敷物に生まれ変わります。
数千年にわたって母から娘へと伝えられた技法を使って美しい文様を刺繍したフェルトを、彼女達は家族やゲル内部を飾るだけでなく牛、馬、ラクダの背中にもかけて平原の中を移動して行きます。
ゴビ砂漠に近い地域を遊牧する部族では約2.5センチから約3センチの厚さのフェルトを使って日本畳一畳分くらいのものからさらに小型の毛氈を作っています。ゲル建築用と同じ厚さのフェルトを使いますが、原反を製造する場合に次のような特徴があります。
1.作業前に1日か2日ウールを天日乾燥して油脂分を少なくしておく
;繊維が絡み合いやすいように
2.防風用に綿製小型天幕で作業場の周囲を囲む
;砂塵の混入を避けるために
3.基布にキャンバス(綿製)を敷き棒で叩きながらウールをほぐす。使い古した敷物を使う場合もある;キャンバスの方が牛皮よりも薄くてウールを強く巻けるのでフェルトの地しまりが良くなる
4.ほぐれたウールの積層の両端からゆるくタオルを絞るように大きくねじりながら巻き取って、作業場のそばにしばらく放置しておく
;ウール繊維を絡ませたまま“寝かせ”ておくことによって落ち着かせる
5.ねじり合わせたウールの積層を再び基布の上に解きほぐして並べ、鉄棒を芯にして冷水を撒きながら静かに強く基布とともに巻いて簀巻きを作る
;ウールの積層が薄いから鉄棒の重量による加圧が大きく繊維の絡みを強くする
6.ラクダにひかせて小石の多い平原を走る
;草原を馬にひかせるよりも凹凸が多く、小刻みの震動が多くなりウールの絡み具合が強くなる小型毛氈は小人数で作業し、場合によっては女性ひとりが手足を使ってごろごろと簀巻きを回転させてフェルト原反を作ります。
(3):モンゴルの華毛氈(はなもうせん)
メソポタミアからモンゴルまで、羊と私達の辿った東方ルートには遊牧民族の女性達が移動生活の中で何世代もかけて繰り返し作りつづけた結果、部族あるいは地域ごとにそれぞれ美しい色彩とモチーフで飾られた毛氈が作り出されました。
現在儀式や貴賓客を迎える時に使われる緋毛氈に対して“モンゴルの華”ともいうべき文様や柄入りの毛氈を「華毛氈」と呼ぶ方がふさわしい表現と思います。
歴史的な年代を別にしてモンゴルに創り出された「華毛氈」を、祈祷用や通常の敷物、寝具掛、鞍掛等に施された文様やモチーフを表現する技法の上から分類すると次のようになります。
1.トルコから伝承したといわれる自由画をフェルト原反の上に描いたもの
2.アップリケで動物やモンゴルの人々が好む三角形の組み合わせ(富をふやす意味)や十字形文様を赤色(同じく富をふやす意味)を使って表現したもの
3.現在最も多く使用されているウールやラクダの毛を手紡器で紡いだ生地の毛糸あるいは染色した毛糸で同様のデザインを刺繍したもの
4.ウール(自生地)ラクダ(茶)馬(こげ茶)ヤク(灰色か黒)の毛を自然色のまま組み合わせながらフェルトの上に乗せ、もう一度フェルト作りを行なったもの;スコットランド北部ハイランド地方で作られるウール原色の組み合わせで作ったタータンや北欧の原色使いの模様入りフイッシャーマンスェ一夕ーと同じ構想で柄出しを行なったもの
5.しぼり毛氈;唐時代中国から日本に贈られた東大寺正倉院の御物は中国製ではなくモンゴルで製造されたものと言われており、現在でもモンゴルのどこかで毛氈の「絞り染」が行われているはずです。「絞り染」方式は江戸時代「蒙古絞」と呼ばれて和装に取り入れられ一世を風靡しました。現在衰えつつあるようですが、日本で行われている染色技法は世界最高の水準にあります。
6.嵌め込み毛氈;しぼり毛氈と同様東大寺正倉院に保管されています。染色したさまざまな形のフェルト小片を螺鈿細工(らでんざいく)のようにフェルト生地の中に嵌め込んで仕上げたものと伝えられます。しぼり毛氈と嵌め込み毛氈は現在の技術力でも再現を許さない“幻の華毛氈”といえるのではないでしょうか。
4:草原をわたる「ヨロール」の風
モンゴルでは遊牧生活の行事や儀式は常に「ヨロール」によって始まり「ヨロール」によって終わります。
「ヨロール」は「祝詞」(のりと)と訳されますが、「ヨロールチ」と呼ばれる人によって、ちょうど吟遊詩人のように口吟されます。ラマ僧侶が読経をするようなほとんど抑揚のない発声が、長く尾をひいて草原をわたる風の音とともに、澄み切ったモンゴルの空に消えて行く“祈りの言葉”です。
羊と私達が四季の変化を迎える時、それぞれの季節に伴う「しきたり」の行事や儀式の時、婚礼やゲル新築の時等、事前には順調に成功することを祈願し、事後には無事に終了したことを祝福して、必ずその場にふさわしい叙事詩が物語るともなく唄われるともなく吟唱され馬乳酒が散布されます。
人や家畜の死に対しては悲しみをもって弔うというよりも、むしろ別世界における再生を願うために捧げられるといわれています。
口承されてきた叙事詩の内容は地域や部族によって色々あるようですが、雪よりも白い羊や千里を走る青色の駿馬がたくさん増え続けること、いつくしみ深い父や母のこと、古代英雄の勇敢な行動や美しい女性に愛を捧げる想いを感情的な表現や口調を一切抑制して綴られる静かな低い言葉が、風のまにまに響きわたります。その意味では「ヨロール」は“祈りの叙事詩”と呼べるでしょう。
神霊が四季の推移を大空に伝えて雲を動かし、アルタイやハンガイの山なみを越えて北西風を、ある時は疾風のように、ある時は幼児の頼を撫でるようにモンゴル平原に送り届けます。北西風は冬から春へ春から夏へと川の流れや草の葉をゆすって、羊と私達を草原へ誘い出します。
やがて神霊は冬の魔神となってシベリア平原から北東風を降ろして草原を老人の白髪のように染めてしまい、ウールのような真白い雪の気配を羊と私達の耳に伝えながら山裾の冬営地へと導いてゆきます。
神霊の言葉が風の音となり響きとなって、モンゴルの大平原を去来する四季の流れを羊と私達に語りかけ、羊と私達は“魂の叙事詩”を「ヨロール」の調べに乗せて唱和しながら遊牧の旅を果てしなく続けてゆくのです。
1.小長谷有紀著:モンゴル草原の生活世界(朝日選書551:朝日新聞社発行)
2.小長谷有紀・楊海英編著:草原の遊牧文明一大モンゴル展によせて−(財団法人千里文化財団発行)
3.張承志著・梅村坦編訳:モンゴル大草原遊牧誌−内蒙古自治区で暮らした四年−(朝日選書301:朝日新聞社発行)
4.大内輝雄著:羊蹄記−人間と羊毛の歴史−(平凡社発行)
5.山根章弘著:羊毛文化物語(講談社学術文庫865/820)
6.杉山正明著:モンゴル帝国の興亡下巻(講談社現代新書1307)
7.間野英二著:中央アジアの歴史−草原とオアシスの世界−(講談社現代新書458)
8.富沢木実著:新職人の時代(NTT出版株式会社発行)
9.京都書院:染色の美・1981年春 第10号特集“世界の絞”
10.特別展中近東遊牧民の染織−松島コレクション−(渋谷区立松涛美術館編集発行)
1924年大阪府生まれ。1948年東京大学経済学部卒業とともに日本毛織に入社。主として輸出毛織物畑を歩き、アメリカ向け毛織物輸出の全盛期には伊藤忠商事の堀田輝雄氏(前副会長)とともに、輸出業界のリーダー格として活躍。取綿役に昇格後、1975年 ニホンケオリアルへンティナ社長、1979年 中嶋弘産業(現ナカヒロ)社長なども歴任。中嶋弘産業退職後、1991年から(株)マネジメントコンサルティングアソシエイツのシニア・アソシエイツとして、コンサルティング・ビジネスに取り組む。