北極圏のウール

信頼の素材、ウールの話 (C.W.ニコル / 森洋子 訳)

イギリスと羊の歴史

イギリス諸島原産のヒツジといえば、たぶん「ソイ種」-小型で、身が軽く、黒っぽい体色のヒツジで、本島周辺に」散らばる、岩がちの小さな島々などで、今でもその姿を見ることができる。ほとんどは野生だ。その起源をたどれば、恐らくは三千年ほど前に、ケルト人がこの地に持ち込んだものが最初だろう。元々は、中央アジアの山岳地帯に生息していた野生のヒツジが家畜化されたもので、旧約聖書を初め、いにしえの記録にもその名は何度となく登場する。

かつてイギリスを征服、支配したローマ軍は、何百種という動植物をこの地にもたらした。白くて毛足の長いヒツジは、その代表格といえるだろう。「ウール」は本来、様々な動物から取ることのできる天然素材たが、家畜である綿羊の場合は、品種改良によって飛躍的な発展を遂げてきた。ローマ軍にとっては、雨がちで底冷えのする島々に一時逗留する際にその雨風をしのぐための外套(たいていは赤く染めて用いた)や毛布を作る大量の羊毛が必要だったのだ。綿羊の登場と天然林の伐採が、イギリスの表情(かお)を変えた。森の木を切り倒し、ヒツジが草を食めば、その場所に二度と木は育たない。緑の丘がなだらかに連なるイギリスの田園風景は、その産物というわけだ。

羊と育ったウエールズでの暮らし

初めて日本人と一緒に日本を旅した折、彼らがヒツジと見れば写真を撮るのがおかしくてならなかった。ウエールズの生まれである私にとって(今は日本に帰化しているが)、ヒツジは別に目新しくも何ともない動物だったからだ。

少年時代は、夏になるといつも、放牧されていたヒツジの群れを追って山を下りる手伝いをした。まずは寄生虫駆除や毛の洗浄のために、ヒツジたちを洗羊液につけ、きれいになったところで剪毛にかかる。ヒツジがお産をするときには叔父の手助けもした。親をなくした子ヒツジは、草が食めるようになるまで、人がほ乳瓶でミルクを与えて育てるのだが、幼い頃は、そうした子ヒツジたちが私の遊び相手だった。我が家では、牛肉や鶏肉に比べ、羊肉が食卓に上る機会のほうがずっと多かったし、靴下からマフラー、セーター、カーディガン、ツィードの上着にコート、帽子に至るまで、身につけるものもほとんどがウール。あの頃の私にとって、毛布と言えば羊毛以外に思いもつかなかつた。

ヒツジも、羊毛も、イギリス人の生活には欠かせないものだ。郊外の家ではどこも牧羊犬を飼っていて、子どもたちにとっては最高の遊び仲間だった。ゴルフも元は羊飼いたちの遊びで、柄の曲がった杖で小さな球をウサギの巣穴めがけて打ち込んでいたのが起源とされている。昔は、ヒツジの体脂で作るローソクが一番安かったし、毛脂を精製して作るラノリンの軟膏は、どんなに荒れてヒビ割れた肌もツルツルすべすべにしてくれたものだ。

厳寒の旅にも信頼を裏切らないウール

ウールの品質の高さについては、改めて言うまでもないだろうが、一つだけ、とっておきの話をご紹介しよう。

以前、冬のさなかに三週間、カナダはユーコン準州のマッケンジー・デルタを犬ゾリで旅したことがあった。同行したのは科学者が一人に地元のガイドが二人。北極海まで足を伸ばす予定とあって、私は周囲の強い勧めに負け、生まれて初めてダウンの入った最新素材のアノラックを着ることにした。犬ゾリでの旅と言っても、のんびり座っていられるわけではない。長旅の場合、積み荷だけでソリが一杯になってしまうため、こちらもほとんど走り通しなのだ。私の体は湯気を立て、ことに背中の汗はダウンに浸み込んで、そのまま凍ってしまった。

寝起きするのは温かなベースキャンプではなく、簡易テントだ。眠っている間にもダウンの着氷はどんどんひどくなっていく。とうとう最後の何日かは、まったく防寒具の役目をなさなくなってしまった。それどころか、私の背中全体に軽度の凍傷を負ったほどだ。あの時は、死なずに済んだのは、分厚いウールのセーターを着ていたおかげだと、私は信じて疑わない。以来、冬に北極を訪れる場合、私は決してダウンを着ない。選ぶのは、動物の毛皮のみ(アザラシやオオカミ、カリブーなど)。もちろん、セーターも靴下もウールだ。春先には、ダッフル地のアノラックに、ウインドブレーカーを重ね着するようにしている。

ウールは、実に信頼に足る素材なのだ。

(資料提供:英国羊毛公社)