【羊毛講座5】ウールとアメリカの人々【藤井一義】

2:独立革命と毛織物工業

英領植民地の立場を北アメリカ側から見れば、綿花をはじめ食料、タバコ、砂糖等の農産物を必ず英本国に輸出し、その代わりに必ず英本国から毛織物や金属製品を輸入することが強制されていました。

18世紀に入ると英国政府の毛織物法、帽子法等の法律や技術者の海外移住あるいは機械類の輸出禁止政策によって、北アメリカにおける工業化は違法とされていました。また北アメリカから食料、酪農製品、木材、衣料等をカリブ海諸島(英領植民地)へ輸出する場合も航海条例によって厳しく統制され、全く隷属的な位置付けを強要されていたのです。

英仏間の植民地争奪戦が終った直後といってもよい1775年、北アメリカ13州は敢然と英領植民地から立ち上がり独立革命を起こしました。

独立革命は幸運にも成功しアメリカ合衆国は世界で最初の大統領によって代表される民主主義国家として、つまり旧大陸では歴史上経験したことのない「君主のいない国家」として注目されながら建国のスタートを切りました。

イギリス糸移民達がニューイングランド地方を舞台にして、全く手作りで創業した「毛織物工業の原型」の上に、アメリカの人々がアメリカ国産のウールとともにどんな国民的性格を形成していったかについて検討したいと思います。

(1)営業の自由

質実倹約の生活姿勢を維持しながら自立自営を目的として半農半工を続けていた彼等は、かつてイングランドで活躍していた「中産的生産者層」そのもので、独立革命前、北東部を中心に多数の「中産的生産者層」が既に育っていたことを示しています。

独立革命の主導的な役割をつとめ大英帝国に対する反逆者として虐殺されたりイギリス軍と戦った大部分の人々は、北東部出身の農民でその他製材工、大工、皮なめし工、製靴工、紡績工、織布工、裁断仕立て工等実に雑多な下層労働者の市民達でした。

彼等が生命を賭けてかちとった「独立」とは、大英帝国植民地から脱して「アメリカ人のための自由平等の国」を建国することでした。つまり中産的生産者層の人々がイングランドで封建制度を突き崩していった歴史的事実と全く同じように、彼等は新大陸でイギリスの帝国主義的植民地制度を打破して、誰にでも「営業の自由」が保証されている近代資本主義社会建設への道を切り開いたのです。

たとえ小規模家庭内手工業の作業場でも自立自営の意識が強まり商業資本による支配や統制を極力排除しようとしました。農村では織布業が牧羊業や紡績業と、新興しつつあった町では織物仕上げ業や衣料の裁断縫製業と連結しあって、専門職人達の分業と同業職人達の協業の輪(リンケージ)を次第に強めながら拡張していったのです。

労働や職業に対する平等感は毛織物工業やその他諸工業の中に旧大陸から持ち越されていた「徒弟制度」を次第に無意味なものとしてゆきました。

技能習得のために何年も親方職人の下で身分拘束を受けることを避けるようになり徒弟側の方から年季奉公中に技能の優れた親方職人を選んで転職する者も現われました。19世紀に入って雇用主が親方職人との間に賃金契約を行なうようになると一時期徒弟は親方から賃金を貰う状態がありましたが、結局徒弟達も雇用主との間に直接賃金契約を結ぶようになり徒弟制度は雇用主(資本家)と賃金労働者の関係に変質してしまったのです。(註1参照)

(2)自給自足

北東部で移民の手によって創業された毛織物工業はイングランドと同様にまず自家消費用毛織物を製造する家内手工業から始まりました。

創業当初イギリス政府の政策によって釘一本もなく金属製品は輸入する以外に方法がなかったので、農民にせよ織布業者にせよ農機具から手織機まで、さらにその上機具の部品を作る工作道具まで手作業で作り出さなければなりませんでした。

したがって自分達の自給自足体制を最低限でも用意しておくため、本業としている農業や織布業以外の仕事や作業も職人になれるくらいのところまで個人の能力技能を備えておく必要がありました。どんな職業の人でも「多能工化」の要請が常にあったのです。

他種の仕事や作業の知識接能が高まるとそれまで知らなかった異種情報が個人間や小集団の中で交流するようになります。この異種情報が個人の本業や得意とする仕事に対しても刺激を与え本来の仕事に対する一層の理解が深まることになりました。

したがって営業の自由を奪われた封建制度の封鎖社会に育った旧大陸の農民や職人よりも幅広い知識や技能を備えた生産者の「専門化」が進むことになりました。「他能工化」と「専門化」が同時平行して進展したことは、18世紀19世紀のアメリカ産業社会に非常に大きな影響を与えることになります。

自給自足体制は彼等が生産者であると同時に消費者であることを意味しています。自家消費用以上に生産された製品を他人の作った製品と交換したり交易しようと思うとそこに製品価値の比較が行なわれます。

自分の生産した製品よりも実用性(実用価値)があるかどうか。もし実用性に相違がなくとも自分が製品を生産するのに要した手間暇よりも短時間に安いコストで生産されたものかどうかに関心が払われます。その結果、消費者にとっては誰でも実用性があると認められるもので同時に安価なものが“良い製品(商品)”としての一般的評価を受けることになります。

毛織物でいえば“一般大衆向け製品”という概念がアメリカ毛織物工業の創業当初から始まり、旧大陸において貴族や富裕な商人層のために高級毛織物を作ることから創業され、やがて海外市場の需要に対応することになった毛織物工業とは歴史的にも文化的にも違った性格になってゆきました。

(3)内需産業

イングランドの毛織物は中世を過ぎる頃から既に東方貿易の対象となり、続いて新大陸貿易の対象となって常に商業資本の手によって国内の毛織物工業に持ち込まれる状態が長く続きました。結果として彼等は大英帝国の輸出産業の代表として今世紀まで世界市場に君臨することになります。

アメリカ毛織物工業は国内の一般大衆向け製品を作ることから創業を始めた関係で、イングランドとは全く反対に国内市場だけに関心を払う内需産業の性格を作りました。

その上独立革命後の国内市場は移民ラッシュ、国民人口の増加と生活安定に伴う需要拡大によって生産供給力を充分満足させてくれたので、ことさら海外需要に目を向ける必要がなかったと言えます。

当初の国内市場は移民達の属する小集団の自給自足体制から始まったと考えられます。小集団の中には農業と小規模の毛織物工業が常に同居して、両者の関係はバランスよく共同体を構成していました。

自給自足体制を備えた小集団と小集団とが何らかの機会で交流しあうと、収穫のことウールのこと等情報の交換、農業や工業製品の交易といったふうに連結関係が生じて、小さな局地的な市場圏が出来ます。

さらに少し離れた地域間に製品を通して農業と手工業者(小さな産業資本)同士の社会的分業と協業の枠組みが拡大されてゆき、やがて農村と農村、農村と都市、都市と州とを連携する産業資本同士のネットワークに発展してゆきました。

アメリカ国内市場は一般的にこのような産業資本同士の交流の中で成長し商業資本が介在する余地は少なかったのですが、靴、衣料、家具だけは例外的に商業資本による前貸下請制度の支配が行なわれました。(註2参照)

独立革命の頃既に北東部には3大市場圏が出来ていました。

マサチューセッツ州ボストン市(ウール取引や織物、衣料等)、コネティカット州ニューヨーク市(織物衣料や遠距離取引)、ペンシルヴェニア州フィラデルフィア市(家具、靴、衣料等)はそれぞれ特長のある専門業種を核とした形で全州を網羅してゆきました。

(4)機械化

18世紀末頃、続々と送り込まれてくる奴隷と旧大陸からの移民とともにアメリカ合衆団の人口は急速にふくらんでゆきました。北東部の諸工業とともに綿織物工業も毛織物工業も需要の高まりに対して何とか安いものを大量に生産し供給しようと考えました。

独立革命後も依然として高い水準で英国製毛織物が北部の港に陸揚げされていることに反感を抱いたことも否定できません。

しかし彼等が当面したのは熟練職人をはじめ労働力が不足している問題でした。

まず彼等は熟練を要する仕事と未熟練工ですませる仕事に分類して熟練職人の数を抑える一方で未熟練工には農村からの出稼ぎや日雇い職人あるいは婦女子や未成年者を使用しました。

旧大陸で行なわれた婦女子や未成年者に対する過酷な労働条件が、新大陸の小規模生産者に課せられ、農村都市の区別なくまた紡績、織布から裁断縫製に至る各部門で低賃金の長時間労働が行なわれたのです。

アメリカで最初の機械制綿紡績工場となったロードアイランドのスレイターの工場では7才から12才の未成年者を雇用した記録があります。

農村から出稼ぎの成年男子を家族ぐるみで雇用したり、若い女性を募集して専用寄宿舎に居住させたといわれています。(註3参照)

未熟練労働を補充する次の対策として機械を導入して工場生産への移行が試みられました。しかし毛織物工業特有の労働集約的な作業工程は簡単に機械化を受け入れることにならず、安い毛織物を大量に生産するためにはとにかく未熟練労働者を集めて小規模の作業場をできるだけ多数集積することに最大の努力が払われました。

1820年代に入ってからニューヨークには合衆国全州を網羅する「紳士服のナショナルセンター」と呼ばれるネットワークが出来ました。(註4参照)

ニューヨーク市郊外の農村毛織物工業と連携して毛織物を集荷し、市内のセントラルショップと称する場所で「裁断師」と呼ばれる高級親方職人の指導によって紳士服の裁断が行なわれ、市内の群小の縫製作業場に配布して製品加工するシステムが出来上がったのです。

毛糸、毛織物から紳士服までの生産工程中に商業資本が多数の作業場を前貸下請制度によって支配したのですが、全国からの顧客注文に応じて毛織物や紳士服を生産供給するための組織や管理方式を構築したアメリカの人々の「企画性」と衣料工業に対する関心は実に驚異以外の何物でもありません。

セントラルショップの狙いは最終紳士服を生産することにあって、毛織物はそのための素材として準備されることを意味しています。

旧大陸から毛織物工業とともに新大陸に上陸して以来、個人の注文に応じて毛織物を裁断し縫製する職人達の手工業の枠から全く外に出たことのない「紳士服衣料の製品加工」が毛織物工業に連結する最終工程としてアメリカの人々の前に提示されたといえるでしょう。

こうしてウールとアメリカの人々にとっては安い毛織物を大量に作ることから、安い紳士服を大量に作ることを考える時期が到来したのです。

註:本稿は森杲著:アメリカ職人の仕事史

マスプロダクションへの軌跡(中公新書1328)に負うところが非常に多く、沢山の史実を引用させていただいたことに心から感謝いたします。
註1:同書P89〜90:工場制度の広範な影響
註2:同書P92〜93:セントラルショップの靴つくり
註3:同書P87:木綿生産—手工業から機械工業へ
註4:同書P97:衣服製造—機械化より安くあがる女性労働
を参照して下さい。

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニー(IWSマンスリー連載より)