【羊毛講座1】国家経済を左右した毛織物貿易【藤井一義】

「ノアの方舟」以来、何千年あるいはひょっとすると何万年もの間、羊は私たちと一緒に世界中をめぐる長い長い旅に出たことになります。有史以降を振り返ってみても、羊と私たちは、東から西へ、西から東へとアジア大陸やヨーロッパ大陸をぐるぐる歩き回ったあげく、結局北半球から南半球の新しい世界へと移動して、やっと安住の地を作り上げた実に壮大なスケールの旅を2000年にわたって成し遂げてきたからです。

1.メソポタミアからの東西の旅

羊と私たちは、文明発祥の地といわれるメソポタミアから中近東を経由して、ギリシャ、イタリアを通り、ヨーロッパ大陸を西北進する方向を辿ったのと、もう一方はエジプトを通り北アフリカの地中海沿岸を、やはり西の方向へ進んだと言われています。また、その反対に中近東を経由して、シルクロードを通ってアジア大陸を東方に向かって進んで行きました。東西どちらの方向にしても、陸路を辿り草原を求めながら、羊と私たちはそれぞれ生れ変わりながら、ゆっくりとそれこそ何年も何代もかかって進んで行く旅でした。紀元前55年、ローマ軍が羊を連れてブリテン島に侵攻してから5世紀に及ぶローマ帝国の支配下にあって、羊の飼育が定着し、イングランドに毛織物工場が建設されたと言われています。紀元476年、ローマ帝国が倒れてから10世紀頃までの「中世暗黒時代」には、ヨーロッパの人々は北方や東方から侵入してくる蛮族との抗争に明け暮れて、農業の耕作や半を飼育するような余裕に恵まれなかったようですが、それでも11世紀から12世紀頃にかけて、イングランドと同じようにローマから持ち込まれたと言われる「メリノ種」の羊がスペインで品種改良され、「スペイン・メリノ種」として、今世紀まで約1000年もかかって世界中にゆきわたって行くことになります。中世の頃、ヨーロッパの一般農民は粗末な麻織物の生地を身体にまとうだけに過ぎなかったと言われていますが、羊は王侯貴族や僧院の財産だったので毛織物は彼等だけが着用できる「高貴な衣服」でした。やがて北フランスの南ネーザーランド地方(現在のオランダ・ベルギー・北フランスの一部)の農村で毛織物工業が盛んになってくると、毛織物はヨーロッパを代表する産品として、次第に地中海沿岸沿いの交易に利用されるようになりました。

2.東インド貿易と毛織物

11世紀に十字軍の遠征が行なわれた頃、ヨーロッパの諸侯は何度となく羊を連れて、はるか昔、彼等の祖先と羊たちが辿って来た道を反対に、西方から東方に向かって派遣されることになりますが、遠征の帰りには、自国では到底見ることの出来ない中近東や東インド諸国の代表産品であるカーペットや毛氈類、あるいは綿織物、絹織物等を持ち帰ってきたので、ヨーロッパの人々はこれらの産品を見て非常に大きな「カルチャー・ショック」を受けたと言われています。このような軍事行動まがいの国際間の交易から、産品同士の交換を目的とした本来の商業交易まで、色々様々な形で行なわれたヨーロッパと中近東・東インド諸国間の東西交流は「東インド貿易」として次第に人と産品との行き来の関係を深めていきますが、この時代はむしろ中近東や東インド諸国から受ける文化的な刺激の方がヨーロッパの生活文化に対して、あるいは当時の経済活動であった農牧業や毛織物をつくる手工業に対して強い影響を及ぼしているのです。近世に入った頃の「東インド貿易」で東インド諸国が求めていた産品は、まず何と言っても貴金属や南ドイツ産の銀、銅などの鉱産物と、それに次いでイタリア、スペイン、南ネーザーランド地方産の毛織物でした。一方、ヨーロッパ側が望んでいた産品は、胡椒(こしょう)、肉桂(にっき)、サフラン等の香辛料、次いで熱帯性植物や果物、そして綿織物や絹織物等でした。近世後期の頃まで、この東インド貿易は、ヴェニス、ジェノアやヴェネツィア等のイタリアの諸都市を中心に行なわれていましたが、後にポルトガルのリスボンに取り引きの重点が移っていきます。しかし、イタリアにしてもポルトガルにしても、すべて王朝やその権力に結び付いた「特権商人」たちがヨーロッパ中の産品をあちらこちらから買い集めた上で交易していた、いわゆる「中継貿易」であって、そのうえこれらの「特権商人」たちが交渉する相手のアラビア商人たち自身もまた仲介によって東インド諸国の産品を手に入れた上で、この「特権商人」たちと交易商談をしていたので、「東インド貿易」の実態は結局仲介商人同士の取り引きだったのです。