【羊毛講座1】国家経済を左右した毛織物貿易【藤井一義】

5.イギリスの毛織物工業と「綜画運動」(囲い込み運動)の展開

三強のうちイギリスは、毛織物や綿織物を生産する繊維工業にしても海軍力を築いた造船、機械、金属工業にしてもヨーロッパ諸国の中で抜群の活動を展開して「産業革命」を成功させ、国内に「産業社会」を建設し、更にそれを基礎として「大英帝国」を作り上げました。そして18世紀から今世紀の初期に至るまで、軍事・外交・政治・経済のあらゆる分野において「近代資本主義のリーダー」として、長らく世界に君臨してきました。したがって、イギリスを舞台にし、羊とイギリスの人々を主人公として、封建制度の末期から「新しい世界」をどのように作ってきたかを見ることによって、今日の「ウールと私達」との関係や経緯(いきさつ)の真髄に触れるところがたくさんあると思われます。

(1)「綜画運動」(囲い込み運動)

新大陸と東インド新ルートの発見は毛織物を世界貿易の頂点に立たせましたが、結果としてヨーロッパ中に毛織物とその原料素材となる羊毛(ウール)に対する厖大な需要を一斉に呼び起こすことになりました。もともと伝統的にすぐれた羊毛生産国であったイギリスは、14世紀半ば頃から、東インド貿易に対する輸出需要を背景に、王室の振興政策によって急速に毛織物工業が発達し、毛織物生産国として頭角をあらわしました。そして更に15世紀末から16世紀半ば頃にかけてこの厖大な新大陸需要を受けて、イングランドを中心に、領主をはじめ富裕な商人や、農村で毛織物工業を自営している農民達が、封建時代からずっと続いている農地制度を変革する行動に出たのです。それまで整然とした区画で使われてきた農耕専用の私有地や、「入会地」(いりあいち)の共同用地までを「権力づく」「金銭づく」で強引に「牧用地」として石垣や垣根で囲い込んでしまう、いわゆる「綜画運動」が各地で展開されるようになりました。毛織物需要は更に一層過熱化してゆきましたから、ちょうど枯れ野に火を放ったように「綜画運動」がイギリス中に広がってゆくとともに、農民達はまず肝心の土地や住居を失い、失職して「流浪の民」となって、あちらこちらで不穏な行動をとったり、犯罪を犯す等の社会問題を惹き起こすようになりました。農民達が去った後、農村は見る影もなく荒廃していったのと同時に、町では紡糸や織布業に携わる専門職人集団の「ギルド組織」から閉め出された下級職人達が、「町から村へ」と流出していって、耕作地を失った貧窮農民と同じ運命をたどることとなり、治安を乱し色々なトラブルを起こしながら「綜画運動」はイギリス全土に拡がってゆきました。「綜画運動」の直接目的としている毛織物増産のための「牧羊地の囲い込み」をこのまま続けてゆくと、国土の狭いイギリスでは農民や職人達の「貧窮民」をまき込んで治安上や政治上の紛争を更に一層大きくして、まったく収集のつかないところまで来てしまう「おそれ」が充分あったのですが、といって仮に牧羊地をヨーロッパの中で求めようとしても、それこそ武力を使って他国でも侵略するような無謀なことをしない限りは、もうどこへ行っても羊を飼育できる土地の余裕など無くなっていたのです。

(2)貸金労働者への道

農地を離れた貧窮農民や職を失った下級職人達の群衆が、あちらこちらを徘徊して様々な問題を起こすようになると、王室は「救貧法」を公布して、更に一層厳しい懲罰でもってこれらの「流浪の民」を取り締まりました。そこで彼等はいよいよ窮地に追いつめられることになり、なんとか自分自身で解決の方法を選ばざるを得なくなったのです。職を失い行き場所を失った彼等にとって、流浪や徘徊を止めて家族と一緒に生活を続けるためには、二つの方向の解決方法しかありませんでした。ひとつの方向は、当時既に農村の中に住んでいて、小規模ながらも毛織物工業で自営独立体制を整えつつあった「中産的生産者層」(マニュファクチャー)に属する人々、あるいは富裕な商人の営む毛織物工場で、賃金を貰って「やとわれ職人」として働くことでした。当時アメリカ新大陸や東インド諸国への厖大な輸出需要を抱えていた毛織物工業にとっては、到底こなし切れないくらいの仕事があったので、むしろ人手不足を補う意味で親方職人の「下請け」あるいは「下働き」のような形でこれらの「貧窮民」を吸収することが出来たのです。このようにしていわゆる「賃金労働者」の初期の形が農村の毛織物工業の中に次第に定着してゆくことになりました。さらに農村では、急速に発展している毛織物工業の周囲に鉱工業や金属工業等も徐々に同じような形で成長して来る段階だったので、このような農村工業に家族もろとも就職して、賃金を受け取る代償に労働を提供する「賃金労働者」という新しい形の職種に入ってゆかぎるを得なかったのです。このようなせっぱつまった選択が、たとえ少ない賃金収入で、ひどい労働条件であっても、彼等にとっては背に腹はかえられない現実だったといえます。16世紀半ば頃から18世紀にかけて嵐のように吹き荒れたといわれる「綜画運動」はイギリスの農村をすっかり変貌させ、一方では「貧窮民」をつくり出しながら、同時に一方では彼等を毛織物工業の中に吸収しながら、全体として毛織物工業を国民的規模にまで発展させてゆきました。そしてその「担い手」となった「中産的生産者層」がやがて「産業革命」を経て「資本家」と「賃金労働者」の二極をつくり出しす原型となった訳です。
(註2参照)

(3)新大陸への道

もう一方の解決方向は、新大陸の植民地に自由の天地を求めて、移民として移住することでした。太古の昔「ノアの方舟」に乗って洪水を逃れたのと同じように、家族と羊とを連れて移民船に乗り込んだ人々は、その当時の帆船の航海力では、新大陸に到着するのに何カ月かかるか皆目見当もつかない旅程のことや、気候風土も全く分からないアメリカ大陸での新しい生活に対して、期待と不安が入り交じる複雑な思いで大西洋の荒波を眺めながら、苦難の長旅に出発してゆきましたが、彼等が下した決断と勇気は賞賛に値することでした。かつてメソポタミアを出て陸路を辿りながら、ヨーロッパ大陸や中央アジア大陸を西方や東方へ移動していった羊と私達は、今度は更に速い遥かな海路を西方に向かって、「新しい世界」での「新しい牧用地」を求めて旅立つことになったのです。