【羊毛講座3】ウールを製造加工する人々【藤井一義】

アメリカ大陸と東インド新航路の発見によってひき起された「商業革命」は、長い間北部イタリアの諸都市によって独占されていたレバント地域や東インド諸国の市場を西ヨーロッパ先進国の人々に対して一挙に開放することになりました。既にその頃ヨーロッパを代表する国際商品となりつつあった毛織物にとっては、非常に大きなショックとして、市場変革の洗礼を受けることになった訳です。もちろんウールや毛織物を取り扱う人々にとっては、まったく天災としてしか考えられないほど大変な出来事でした。

1.フィレンツェの毛織物工業

(1)フィレンツェの位置づけ

14世紀から15世紀にかけて、ルネッサンスの華が北部イタリアに咲き誇ろうとしていた頃、フィレンツェでは毛織物工業がこの自治都市の経済的基盤を実質的に支えていました。それ以前から厖大な量のスペイン、南ネーザーランド、あるいはイギリス産などの毛織物未仕上げ反(製織されたままの状態の毛織物生地原反のこと。この後染色されたり、洗絨、縮絨、仕上げ等の加工工程を通って仕上げられます)がフィレンツェヘ運ばれ、その上スペインやイギリスから輸入したウールを使用して製造した地場産の毛織物原反とともに染色されたり仕上げ加工を施されてヴェネツイァ、ジェノア等の港からレバント地域や東インド諸国へ輸出されていました。したがって、フィレンツェは当時ヨーロッパ最大の毛織物加工基地として繁栄していたのです。

(註1:自治都市参照)
このような毛織物の輸出入取り引きや貿易金融を取り扱う商業も毛織物を製造したり加工する製造業も、「ギルド」(同業組合)と呼ぶ組織に属するメンバーによって行なわれていました。

(2)フィレンツェの「商人ギルド」

(註2:商人ギルドと工匠ギルド参照)

フィレンツェには大小さまぎまなギルド組織が21団体もあったと伝えられます。その中で大きな組織と勢力をもっている7団体をさらに牛耳っているのが、「織物輸入業者と再加工業者」「織物製造業者」「一流の小売商人と絹商人」「両替業者」の所属する4団体で、これらの業者名で分かるように毛織物の商業貿易を取り扱う「商人ギルド」と、毛織物製造加工業者で所謂「親方」にあたる上層部の職人達が構成する「工匠ギルド」の両組織のメンバーが、財政上の実力を背景にしてこの都市の政治行政の奥にまで深く立ち入り、フィレンツェ全体を実質的に支配していました。

「商人ギルド」はフィレンツェの中でも最も富裕な商人階級の人々で構成されていましたが、中世過ぎの頃から始まったといわれるヨーロッパの初期ギルドで行なわれていたように、この「商人ギルド」は商人の同業者集団でありながら、実際の商品生産者である多くの工匠や職人を支配統合する形を伝統的に続けてきた経済集団でしたから、またそのうえ彼等はご多聞にもれず、貴族階級と結託して都市の特権や公権を独占していましたから、「工匠ギルド」やその他の中小ギルドに対して優位に立ち、実質上の統制力をもっていたのです。

しかも彼等はアントワープやヴィエラ、ロンドンその他西ヨーロッパの商品市場で多くの特権が認められ貿易業者として活躍するだけでなく、多くの国々の王朝や貴族階級にまで高利貸付を行ない宮廷の財政の中に寄生して暗躍するような金融支配力をもちつづけていました。14世紀から17世紀までローマ法王庁や西ヨーロッパの王朝貴族達に対する莫大な金融債権を盾にして辣腕をふるっていたメディチ家の活躍も、このフィレンツェの金融業から長い歴史を開始しています。

(3)フィレンツェの「工匠ギルド」

(註2:商人ギルドと工匠ギルド参照)
商人ギルド」に対抗しながら毛織物取り引きの上からも市政に参加する上でも連帯して活動を続けていたのが「工匠ギルド」です。その当時彼等はヨーロッパを代表する毛織物の製造加工技術をもっていましたから地場産の毛織物もそこそこの生産量をあげており、フィレンツェ独特の染色仕上げ加工に対してヨーロッパだけにとどまらず、イスラムや東インド諸国のような海外市場から非常に高い評価を受けていました。

したがって内心ではいつも商品生産者を下層視しているのに表面上「商人ギルド」は「工匠ギルド」の存在を無視することが出来ず、西ヨーロッパ産の毛織物未仕上げ反の厖大な取り引きや外国の王侯貴族に対する高利貸金融の取り引きも相互に絡んで両方のギルド間には妥協の平和が保たれていました。

なおメディチ家は毛織物の染色作業に必要な明礬(みょうばん)をレバント地域から独占的に輸入していましたが、後になって明礬鉱山まで独占経営に乗り出すような行動をとり「商人ギルド」はそれなりに北部イタリアの毛織物工業にとって重要な役割を果しながら、毛織物を媒体とした取り引き上の共同利益を享受していたのです。
(註3:明礬参照)

この「工匠ギルド」のとっていた労働形態は都市の熟練職人や農村の家庭内労働を下請けとして使いながら毛織物を製造していました。当時彼等が採用していた製造工程は全部で30工程近く細分化されていたと伝えられています。機械設備はもちろん労働用器具や作業方法等に大きな相違はありますが、今日一般的に行なわれている製造工程と比較してもその手順は大きな変化が認められないほど完成された水準に達していたと推定されます。

(4)フィレンツェの安定

中継貿易の形態が多かったとはいえヴェネツイア、ジェノアなどがレバント地域や東インド諸国との間にヨーロッパ最大の貿易量を誇っている間、フィレンツェは加工基地として繁栄を続けることが出来ましたので、市政も安定していました。

しかしフィレンツェの権勢を誇る貴族的商人達は商業利潤を一途に追求することに向かって狂奔しようとしました。東方貿易の繁栄とともに彼等の生活はエリート意識に溺れ奢侈な消費に流れるばかりでなく、毎日朝早くから夕方遅くまで労働に従事する職人や農民のような実際の商品生産者や一般庶民を下層視していましたが、いよいよ貴族的意識が強くなり市政上の特権や公権を利用してますます専制的な行動をとったり利潤独占をはかろうとしました。ところがある日突然「商業革命」が起こったのです。革命のその日まで、フィレンツェの街は麗しいルネッサンス文化におおわれて美しく輝いていましたが、その実、街の中は「商人ギルド」と「工匠ギルド」、貴族的商人と一般庶民、都市と農村といった対立と抗争とが大きな渦をまいていたのです。
2.重商主義政策と商人ギルド「カンパニー」

美しくて艶のある毛織物を仕上げることでヨーロッパ最高の品質評価を誇った北部イタリアの毛織物工業に対しても、10世紀頃から毛織物の産地として既に有名だった南ネーザーランドの毛織物工業に対しても、イギリスはひたすら伝統的に羊毛原料を供給し続けてきました。ところが14世紀半ば頃になって、イギリス王朝は国内の羊毛工業にとって運命的ともいえる政策を決定しました。
(註4:羊毛工業参照)

当時イングランドの都市や農村で商業活動や手工業が次第に活気を帯びてくるにつれて、古くから羊毛原料の輸出を独占してきた羊毛商(Merchant Stapler)とは適った別の範疇に属する新興商人層が次々に台頭してくる様子が見られました。したがって、これらの新興商人層の手を借りてイギリスの国民経済にとって伝統的に基本産業となっていた牧羊業から重点を毛織物工業に移して国民的規模で促進しようとする構想を基礎にしてこの政策決定が行なわれました。何れにせよ当時のイギリス王朝としては非常に画期的でしかもすぐれて戦略的な構想をもった決断が行なわれることになったと言えるでしょう。

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