【羊毛講座3】ウールを製造加工する人々【藤井一義】

(4):農村の織元

ごく初期のマニュファクチュア一段階から少量の生産規模でも都市の織元の問屋制前貸しを受けず、毎週自己資金で原料を仕入れ自分のリスクで毛織物を生産し市場で製品の販売を行って結構きちんと利益をあげて来たいわゆる「貧乏な織元」と呼ばれる存在が農村にありました。

当初都市の織元から羊毛や原糸の前貸しを受けてきた農村のマニュファクチュア一所有者達が“生産力”を拡充してくるとともに徐々に前貸し支配から脱して「貧乏な織元」と同じように自営独立の行動をとるようになりました。そして綜画運動の展開につれて大小様々なマニュファクチュアーが農村一帯にはっきりした姿をあらわすようになると、かつて「貧乏な織元」と呼ばれる織元が続々と出てくるようになったのです。

彼らの標準的な経常は

農村に住んで小区画の土地を所有または賃借してごく小規模の農牧業を兼営している毛織物マニュファクチュアーの所有者。
協業の規模は約10人乃至20人程度の労働作業員で構成する中堅クラスのマニュファクチュアー、しかし彼らの為こ紡毛作業を行う小規模生産者と場合によっては賃機制度(織機を貸与して織布作業をさせる外業部門)を持っている。通常染色、縮絨、仕上げの職場も兼営している。
自ら繊布工として生産労働を行い織元として賃機部門や各種の委託業務を含めてマニュファクチュアー全体の生産を管理統轄する。
問屋制前貸しは一切受けない。自分のリスクで原料羊毛、原糸を調達して紡毛工や賃機部門に前貸ししたり場合によっては染色、縮絨、仕上げを委託する。出来上がった毛織物は毛織物市場で自ら販売する。

「農村の織元」はこのようにマニュファクチュアーの所有者であるとともに生産業者として原料調達—製造加工—毛織物販売の一切をとりしきる産業資本家である点で「都市の織元」(前期的商業資本)とは全く異質の存在でした。

(5):宿命的な対決

都市の織元は王朝公権と結託して農村の織元に対して問屋制前貸し制度の独占を更に一層押し付けようとしました。彼らはカンパニー制度の諸規制を強化したり各都市に特権企業を設立して原料や製品の販売を独占しようとしましたが、農村の織元には効果どころか逆に一般織布工や傘下のギルド職人の反感を強め、更に一層彼らの農村への転出や自営独立への気持ちをあおることになりました。

同時に都市の織元は農村の織元の持っている生産設備や雇用人員に対して直接法的規制の網をかぶせてマニュファクチュアーの拡大を抑制しようとしました。しかし同じ規制内容の法令が何度も繰り返し発令されたことは、この規制条例が全く無視され無効となった事情を物語っています。
(註1:規制条令)

規制条例には例外規定が多く、特に毛織物工業の密集地域が除外されていたり、自営農民や農村の織元達の政治折衝によって肝心の地域は骨抜きにされてしまいました。
条例違反のかどで農村の織元達を裁判沙汰に持ち込もうとしても、当時地方(州)裁判所の治安判事達は自営農民や毛織物工業との結びつきが強く、彼らはあえて怠慢な取り扱いをしたため実効が上がりませんでした。
最も強調される事情は自営農民や農村の織元達が都市の織元やカンパニー(ギルド組織)の独占行為に対して白熱した反対議論を下院議会で展開し独占論争を大いに湧かせ一般大衆にまで強い影響を与えました。

このような事情で理解されるように農村の織元達は生産力を背景にしてすでに強固な経済力と議会を動かす政治力を持つところまで成長を遂げていたのです。

(6):むすび

農村の織元は発生の経過からみて分かるように、常に問屋制前貸しによる支配を排除しマニュファクチュアーの生産力拡充を基軸に自営独立の道を貫いていて成長しました。

ではどうして農村の織元はマニュファクチュアーを充実し生産力を拡大できたのかを考えると、彼らが農村で流水等の自然条件や低廉で豊富な労働力源に恵まれたことが一般的な理由としてあげられます。

しかし彼らがマニュファクチュアーの中に大勢の貧窮農民をはじめ貸金労働者を投入することによって「分業による協業」体制を確立し拡充し得たことが生産力そのものを大きく増強させることにつながった最大の理由といえます。

ではどうして「分業による協業」体制が生産力拡大につながるのか、その理由は

分業による協業体制をとることによって労働者の熟練度を向上させることができる。たとえ昨日まで彷徨していた貧窮農民でも分担業務を繰り返すことによって熟練工に近づけることができる。
原料手配—選毛—椀毛—紡毛—織布の各工程間の道具設備と人員配置の均衡を保つことによって毛織物生産に最適の効率的な体制が取れる。
労働者の技能や使い勝手に適合するように道具を改良できる。
織機、染色、縮絨、仕上げ等の設備を一ケ所に集めて操業することにより分業協業体制が取り易く運搬経費、時間等が大幅に逓減できる。

ことによって生産量が飛躍的に上昇し生産費が大幅に削減されました。

結果として期待以上の生産利潤が農村の織元達の手元に残ることになり、財務力が次第に蓄積され経営力が高まってゆくことによって商業資本の支配に充分対処できたのです。

やがて都市の織元は農村の織元の前に屈服しければならない日がやってきます。旺盛な海外需要にこたえるためカンパニー商人の中にはどうしても毛織物を買い付けねばならなくなって農村の織元から直接購入するものが現れてきました。

国内取引についても農村の織元のいきのかかった新興商人が現れて活躍するようになると、都市の織元は実質生産者であるギルド職人達が農村に流出して生産力が激減してしまったことと逞しい新興商人の台頭との「はさみうち」にあって衰退の道をたどるか、それとも自ら前期的資本の商業経営を近代化するかの選択を迫られていったのです。

農村の織元が何故このように何世紀もかかって都市の織元の支配を脱しながら毛織物の生産規模を拡大し生産力を上昇させることに打ち込んでいったのか、彼らを自営自立の方向へかりたてるものは一体何であろうか、それは物質的な利益追求にあるのかそれとも独占とか自由とか言った精神的な要素にあるのか等多くの課題を残すことになりました。しかし一応イギリス毛織物工業の原型についての特長と初期資本主義社会の構造の一端を説明したのでこれらの課題は別の機会に譲りたいと考えます。

註1:規制条令
規制条例:1555年発令「織物工条令」、1557/58年発令「毛織物製造に関する条令」等数々の条令があげられます。資料:大塚久雄著作集〈岩波書店):第ⅠⅠ巻近代欧州経済史序説掲載

資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニー(IWSマンスリー連載より)

著者:藤井一義(マネジメント・コンサルティング取締役)
1924年大阪府生まれ。1948年東京大学経済学部卒業とともに日本毛織に入社。主として輸出毛織物畑を歩き、アメリカ向け毛織物輸出の全盛期には伊藤忠商事の堀田輝雄氏(前副会長)とともに、輸出業界のリーダー格として活躍。取綿役に昇格後、1975年 ニホンケオリアルへンティナ社長、1979年 中嶋弘産業(現ナカヒロ)社長なども歴任。中嶋弘産業退職後、1991年から(株)マネジメントコンサルティングアソシエイツのシニア・アソシエイツとして、コンサルティング・ビジネスに取り組む。

この草稿はすへて大塚久雄著作集(1969年岩波書店発行)に収められた大塚教授の論文資料によって出来上がったものです。今は亡き恩師の偉大な分析結果とご卓見に対して深い畏敬の念を禁ずることができません。もしこの草稿の中に誤解や間違いがあれば、すべて小生の負うべき責任であります。(藤井)

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