【羊毛講座4】ウールと私達日本人【藤井一義】

4:毛織物市場の形成

(1)官特需の優先

大英帝国の繁栄を眼の前に見た明治政府は鉄鋼産業(重工業)と繊維産業(軽工業)の両極を基軸にして資本主義社会を建設する計画を立案しました。

さらに政府は西欧文化を日常の生活様式の中に定着させようとしました。先ず兵役義務についた日から農村青年は野良着をラシャの軍服にかえ、ベッドの上に「ふとん」代わりの毛布で眠る生活を強制されました。

軍隊はもちろん官公庁、警察、学校等はユニフォームをステイタスシンボルとして積極的に洋装化を進め、紳士服をはじめ洋服一般の需要市場をつくり出すことにしたのです。

鉄鋼も繊維もようやく資本主義生産のピッチを上げようとしていた矢先、偶然とは言え10年間隔で日清戦争(1894年)日露戦争(1904年)第一次大戦(1914年)が発生しました。

私達は幸運にも戦勝国となり極東地域の経済権益を大きく拡張できたので、創業間もない毛織物の民営生産企業は戦争前後の特需ブームをそのまま受ける形で大規模な設備投資に走ったのです。

結果として羊毛紡績の民営企業は欧米の先進国並みあるいはそれ以上の生産能力や工場組織を持った産業資本になることが出来ました。

(2)過剰生産体質

各企業とも戦争特需のピーク時に生産供給能力をあわせて設備投資をしたため、慢性的な過剰生産の危険が待ち受けていました。

つまり特需が続く限り一般民需用の生産能力は圧迫されて市中価格は高騰し利潤を得られますが、特需が終われば一転して生産能力は過剰となって製品在庫を膨張させ価格は暴落して不況に陥るパターンが何度となく繰り返されたのです。

それでなくても常に相場変動の激しい原料羊毛や原糸輸入あるいは高額の機械設備輸入による資金負担が企業の上に重くのしかかっていて、戦争気運に乗じて商業資本による投機的な思惑輸入も絡み、産業資本として生産企業が自立自営するのに非常に困難な状態が続かぎるを得ませんでした。

経営基盤をしっかり構築しておかなければならない創業時から、官特需を優先して慢性的な過剰生産体質がつくられていったことは、創業のその時点から発生した過当競争によって原糸、毛織物の市場価格がいつ変動し生産ベースがいつ崩れるか分からないような状態が潜在的に続いていったからです。

(3)一般民需市場

1904年尾州地区で「着尺モスリン」の製織が成功し、続いて「着尺セル」の製織も開発されました。

広巾の舶来品にかわる着尺巾の国産品が供給されて、はじめて本当の意味での内製化が完成したことになりました。

着尺巾の反物であれば、当時家庭婦人が常識的にもっていた裁縫接術で絹織物や綿織物の着物を仕立てるのと全く同じ手順で、モスリンやセルを手軽に裁断し仕立てが出来るようになったからです。

手編み毛糸も明治中期から輸入がはじまっており、着尺モスリンと同様手芸能力のすぐれた日本の家庭婦人達の絶大な人気を集めました。

手編み製品は和装に併用できる実用性もさる事ながら、編み替えができる経済性も大きな促進要素となりました。靴下編み機が輸入され手編み機の考案によって消費がなお一層急速に拡大し、メリヤス糸と共に毛織物の内製化によりもずっとはやく国産化できました。

明治後半期西欧文化の流入が益々激しくなると、いわゆる「背広」や「外套」を看ることがエリート達のステイタスシンボルとなって、サージや梳毛織物が徐々に一般市民の間に普及しはじめました。

しかし裁断縫製が「切り売り注文服」としてまったく専門化しましたから、依然舶来品を主流とする考え方が温存され、梳毛服地の需要量はなかなか生産能力を満たす所まで到達できなかったのです。

(4)前期までの到達点

前期の毛織物工業の生産が頂点に到達したのは昭和4年(1929年)頃から昭和12年(1937年)頃までのほんの約10年間です。

当時既に梳毛織物は平成7年(1995年)現在の水準の約90%まで拡大されており、モスリンとセルの二品目だけで梳毛織物全体の約80%以上を占めています。

紡毛織物の生産は梳毛織物の約10%から20%未満に過ぎず、一般内需市場は生産面も消費面も、いかに和装用梳毛織物に集中していたかがうかがえます。

第一次大戦後の世界不況が日本を襲ってくると、さすがに一世を風靡したモスリン・セルも消費不振からくる過剰在庫の増大、市場価格の暴落によって生産企業も流通企業も赤字の倒産状態に陥ってしまいました。

不況の局面を打開しようとして実施した価格協定や操短決議は、モスリンだけに限定しても大正9年(1920年)から昭和2年(1927年)まで12回に及び、毛糸も7回を数えてます。

この経緯が物語っているように、前期の毛織物市場を支配した和装用梳毛織物への過度の集中は、毛織物工業の内製化が私達日本人の中に定着したかどうかを問いかける問題でした。