【羊毛講座4】ウールと私達日本人【藤井一義】

1:後期における毛織物工業

−オイルショックまで−

満州事変以来15年間に及ぶウールと私達の「空白期間」がようやく終わって、戦火に耐えた工場に運び込まれた麻袋の脂付羊毛が、あの懐かしい匂いを放つと毛織物工業の人々はようやく平和が戻ってきた実感を噛みしめることが出来ました。

しかし「空白期間」の後に続く時代も激動の20世紀と呼ばれるのにふさわしく、日本経済のパラダイムを根底から揺さぶる変動の連続でした。

今ちょうど20世紀を終わろうとする時、後期の毛織物工業がたどった足跡を復興の先頭に立って高度成長の基礎を構築するまでの「拡大」の四分の一世紀とオイルショック(1973年)を起点にして体質と構造を変えざるを得なくなった「転換」の四分の一世紀とに分割して、ウールと私達日本人の本質問題にふれてゆきたいと考えます。

(1):復興プラン

「世界第二位の生産規模」と言われた毛織物工業が戦後に残された設備は、梳毛その他紡績約30−40%、紡毛その他約60%という惨澹たるものでした。

しかし各企業とも損失の大部分を残っていた積立金や留保金で処理したのですから、前期の毛織物工業がいかに企業力を貯えていたかが分かります。

残存していた設備資産はすへて戦勝国に対する賠償に当てられる予定でしたが、大戦終結と殆ど同時に米ソが冷戦体制に移行したことによって急遽方針は撤回されました。「賠償から復元」へと旋回したことは日本経済にとって全く幸運の一語に尽きます。

日本経済再建のためのヴイジョンは、中長期的に重点を重化学工業に置き換え、短期的に繊維工業を基軸において産業復興を図ろうとするものでした。

まず繊維産業再建三カ年計画として、綿紡400万錘、梳毛設備733,000錘、紡毛カード815台が掲げられましたが、梳毛設備と紡毛カードの計画値は既にこの時点で前期の最高設備能力を越えていたのです。

壊滅状態の設備を三カ年で再建するためには何よりもまず資金が必要でした。しかし政府は明治維新政府と同様外資を全く使用せず内資だけで再建する決意を固めていました。

14世紀から15世紀にかけてイギリスの毛織物工業や国民的商人達が王朝まで侵蝕していたイタリアやハンザ同盟の外資を排除してしまうのに多大の時間と努力を使ったことにひき比べて、20世紀後期敗戦国日本の毛織物工業に与えられた運命的な再建スタートを今更ながら感じざるを得ません。

(2):朝鮮動乱による特需の影響

ようやく私達の周囲から銃砲の響きが消えたのに、1950年朝鮮動乱はまたしても日本の毛織物工業に特需ブームを与えました。飢餓状態にいた毛織物工業にとって原料と製品販売が同時に与えられる特需注文は正に乾天に慈雨となりました。

戦時中に累積された15年間分の需要に加えて降って湧いたように発生した膨大な特需を前にして、各企業は眼の色をかえて一斉に設備増強に狂奔しだしたのです。

朝鮮動乱を引き金にGHQと政府は繊維産業に対しどうして原料を配分するか、また原料輸人のための外貨をどうして調達するかの問題に一層積極的に取り組むことになりました。

1953年輸出報奨リンク制度が設けられました。

この制度は輸出をすればするほど内需生産用の設備や操業に対する割り当てを大きく上回る外資報奨として原毛を獲得できるので、その報奨分で高価格の内需商品を生産販売すれば高利潤をあげられる狙いがありました。

企業は「輸出は国策なり」とする政策を最優先の経営方針に掲げ「輸出時代」がはじまりました。しかし輸出は原料獲得のための方策にとどまり企業収益は内需市場に対する依存度をますます強めてゆくことになったのです。

(3):輸出時代

後期の毛製品輸出は香港、インド、パキスタン、中近東、アフリカ等の開発国市場から1960年に入る頃には最先進国北米市場に対して開始されました。

北米市場にとって日本製毛糸毛織物は全く未知の商品でした。しかしメリノ種羊毛を使ってシルキータッチを持った高番手梳毛糸や梳毛織物の感触は好奇心に溢れた米国消費者をとらえて離さなかったのです。

品質管理が行き届いていた上にヨーロッパ製品よりも比較的廉価だったため、折りから全米を覆っていた未曾有の好況と当時成長期にあった紳士服アパレル工業に迎えられて爆発的な売れ行きとなりました。

米国では早くから国内産業保護の目的で日本製繊維製品の輸入に対して色々な形の制限運動が展開されていました。その背景には国内紡績や織布業者群の強大な政治勢力が働いていたからです。

1960年代末日本製毛織物の輸入実績が過去最高に達するに及んで、ついに国内紡績はダンピング提訴に踏み切り、続いて対日輸入制限のための国際協定締結へと進んでゆきました。今や日米間の通商貿易問題は完全に政治問題化してしまったのです。

1971年日米毛、合繊取極(とりきめ)が発効、1974年団際繊維取極がガットで例外規定として承認されました。日本や発展途上国は対象に2005年の自由化まで30年以上の長期にわたって繊維製品輸入の数量規制を行う政府間協定が締結される結果となりました。

既に羊毛輸入は自由化され激しい国際相場の変動と高度成長による人件費の高騰によって国際競争力を失いつつあった日本の毛織物工業は、オイルショックと国際取極の締結を決定的な契機にして、北米市場をはじめ輸出市場を一挙に失い国内市場の中に沈潜せざるを得なくなったのです。

(4):複合繊維時代

戦後すぐナイロン、ビニロンがあらわれ、重化学工業化の波に乗って導入されたポリエステル繊維とアクリル繊維が参加し、いよいよ繊維の新時代を象徴する化合繊と歴史的伝統技術を象徴する綿、羊毛がもろにぶつかり合う「複合繊維時代」に突入することになりました。

化合成繊維は20世紀後期に風雲をまき起こした繊維の革命児でした。当初天然繊維産業は化合繊の市場参入をおそれていわゆる村区分の壁を高くすることに汲々としていました。

しかし天然繊維では到底出来ない高番手の可紡性や防皺防縮等の加工上の優位性によって生産や収益上昇が大きく期待され、複合による特性を強調した商品が続々と製品化されて開発の将来性が消費市場の中に拡大してゆきました。化合成繊維のすぐれて戦略的な産業資本活動によって、素材障壁は消費需要の面から急速に崩れてゆかざるを得ませんでした。

やがて綿紡績大企業は化合繊に対して積極的な投資を行い企業合同や加工系列の編成が全国的に展開されてゆきました。羊毛紡績も混紡交織等の加工部門で製品開発や技術革新を行いながらかえってウールと私達日本人の関係を生産面や消費面で広く拡大することが出来たのです。

1970年に入る頃になると日本経済は高度成長に向かってますます急テンポで進む情勢でしたが、日本の繊維産業はもう既に綿、羊毛、化合繊の三大素材を総合して優に米国を凌駕する繊維王国に発展を遂げていたのです。

(5):オイルショックまでの毛織物工業の到達点

後期の毛織物工業がオイルショック(1973年)までに到達した生産規模を、前期の最盛期(1936年)当時と比較すると、

生産量:梳毛糸3倍以上、紡毛糸2倍以上、梳毛織物2倍以上、紡毛織物3倍以上
原毛輸入:約4倍
設備:梳毛式精紡機2倍以上、紡毛カードほぼ前期並み、毛織織機は前期より一割増加

となっています。

特色として
輸出時代を過ぎ複合繊維時代に入って急激な拡大成長を遂げています
前期以上に梳毛糸、梳毛織物重点の生産に傾斜しています
世界一の羊毛購入国であり羊毛消費国となりました
設備近代化に伴う生産効率と製品高級化を考えると生産規模において世界を代表する毛織物工業国となっています

(6):高度成長を終えた毛織物工業

前期の毛織物工業は技術設備から工場制度や経営方法までイギリスをはじめヨーロッパ方式を踏襲していました。後期は米国型のハードやソフトの導入に重点が置かれ、接術革新や近代化投資によって生産性を向上し高度成長を目指すことが常に企業に求められたのです。

高番手梳毛糸を集中的に量産し、編織工程や染色整理等の後(あと)工程で個性的な変化を作り出そうとする米国型梳毛糸重点の量産方式が一般化してゆきました。

過剰生産体質の上に各企業が揃って汎用性のある梳毛糸を集中的に量産し一斉に売り上げ増強に奔(はし)ったのです。

その間手編み糸やニット製品の普及あるいは紳士服アパレル工業の台頭もあって需要量も急速に伸びてゆきましたが、結局量産スピードに追いつけずに生産段階や流通段階の随所に在庫が累積してしまいました。

戦時統制が撤廃された直後から過剰設備の格納処理あるいは市況安定のために過剰生産を抑制する操短といった不況カルテルと共同行為が続きます。

基本構造に過剰生産体質を抱え込んでいながら、高度成長を目指す経営方針に基づいて生産性向上に一生懸命努力することによってさらに一層過剰生産を生み出す自己矛盾の「くり返し」が生産企業も流通企業もオイルショックの前夜最高潮に達していました。

(7):原毛市場と毛糸定期市場

繊維間競合が激しさを加え、先ず軽量の化合繊織物が重衣料用紡毛織物を直撃して急速に紡毛用雑種羊毛の買い付けが減少してゆきました。反対に梳毛用高番手メリノ種に買い付けが集中する等南半球の原毛市場は暴騰と暴落をくり返すようになって北半球の生産市場は混乱におち入りました。

豪州政府と日本をはじめ主要羊毛消費国との間に10年に及ぶ長い議論が重ねられ、ついに1973年/74年シーズンから原毛市場に価格管理制度が実施されるに至ったのです。

1951牛(昭和26年)以来紡績業者は繊維取引所に梳毛糸(48番双糸)を上場して毛糸定期市場が生まれていました。ところが紡績、毛糸商、機屋間で相場価格を実際の取引指標として安易に流用したり、原料相場の激しい変動とくり返された操短措置等を利用して投機や換金目的の市場撹乱が再三再四行われて相場価格は実勢から遊離し商品市場としての機能は失われてゆきました。

市場撹乱のたぴに当事者間と行政府を絡めて市価安定のための論議と市況対策が行われましたが、結局1982年(昭和57年)紡績業者が定期市場への訣別を決意するまで約30年間の不毛の忍耐が続くことになったのです。

後期の毛織物工業は他産業が高度成長を迎えようとしている時に、変動につぐ変動に翻弄されながら問題解決の糸口すら見出せないまま怒涛のようなオイルショックの波をかぶることになります。