【羊毛講座4】ウールと私達日本人【藤井一義】

2:ウールと和装

幕末から始まり明治から大正にかけて私達の衣料市場は「モスリン時代」を迎えたと言っても過言ではありません。

この時期ウールと私連日本人の関係は「モスリン」或いは「メリンス」と呼ばれる薄地の舶来毛織物を通じて「ラシャ」とは比較にならないほど急速に深まっていったからです。

元来「モスリン」は綿製の薄い布地で、インドのダッカ(Dacca)地方の高級産品と言われています。それがイギリスをはじめヨーロッパに輸入された後、フランスやドイツでウールを素材にして製造され「ウールモスリン」として日本に輸入されました。

日本の小売市場では「メリンス」と言う名称で販売され、それまで余り毛織物に縁のなかった和装用に、しかも主として婦人子供用に着用され更に風呂敷や座布団まで一般庶民の日常生活の中に広がってゆくようになったのです。

(1):「モスリン」の輸入

(註1参照)
「モスリン」の輸入は明治元年(1868年)既に約35万平方ヤードの記録があり、明治10年(1877年)には約1200万平方ヤードに達しています。更に全盛期の明治29年(1896年)に約3700万平方ヤードと言う膨大な数量にまで到達しました。

このような「モスリンの輸入ブーム」も明治39年(1906年)頃から減少に転じ、大正6年(1917年)以降完全にストップしてしまいました。

輸入がはじまってから約半世紀の間に内製化が普及した結果ですが、国内における大量の消費は昭和初期まで続き、日本におけるウール市場の形成を促進する歴史的な契機となります。

(2):「モスリン」の特性

「モスリン」は日本人が今まで経験した最も薄い毛織物です。ラシャとは全く対照的な軽量織物ですから、非常に細い単糸の毛糸を経緯双方に使って製繊作業も染色作業も難しい製造技術を必要とする毛織物のひとつです。

一般需要がこれほど集中したのは、普通のラシャ(毛織物)に比較して価格が格投に安く一般大衆が購入しやすかったからだと言われていますが、実際に「モスリン」を着用して次のような「ウールの実用性」を見つけたからと思われます。

輸入がはじまってすぐ友禅加工が日本人の手で開発されたので友禅模様をプリントすれば、見栄えは全く絹織物友禅と変らないこと
家庭婦人が単衣(ひとえ)を仕立てるのと全く同様に手軽に手縫い仕立てが出来る。小片切断後の処理はむしろ絹織物や綿織物よりも容易なこと
薄地軽量の織物ですから者ぶくれせず羽織の肩裏などにも部分使用が出来て、絹織物との「なじみ」も良いこと
保温性があるのは当然ですが、湿気や汗に対しても蒸れない「しゃりっ」とした清涼感がたのしめること
皺になりにくくそれでいて美しいシルエットを作り出すドレープ性があること

等の特性によって「ウールモスリン」は日本人の伝統衣服である和装の中に、先ずウール定着の第一歩をしめました。

私達日本人には春夏秋冬四季の変化につれて衣服をはじめ身の回りの家具調度品や所持品まで色柄や素材等を変化させて季節感覚を楽しむ風習を持っています。

「モスリン」のような薄地の毛織物が、四季の中で最も温湿度の変化しやすい夏をはさむ前後の時期、つまり「合(あい)の季節」に着る「普段着」から、ウールは私達日本人の日常生活の中に根を下ろしていったと見ることが出来ます。

註1:羊毛の語る日本史(山根章弘著PHP研究所発行;21世紀図書館0020)掲載資料に基づいています。
資料提供:ザ・ウールマーク・カンパニ ー(IWSマンスリー連載より)

嘉永6年(1853年)浦賀に来航したペリー艦隊は徳川幕府に開港政策を迫りました。それまで夢想もしなかった「資本主義」と言う「世界の時代潮流」への参加を私達日本人に呼びかけてきたのです。

南蛮渡来の「鉄砲とラシャ」が当時の武将たちに与えたカルチャーショックとは到底比較にならないほど強烈な「舶来思想」の衝撃が日本国中を駆け巡ってゆきました。

この時点からはじまった「資本主義」導入に伴う大きな社会変革と異常な速さで反応した近代化の過程の中で、ウールと私達日本人の関係は一体どのように展開されていったか。更に日本の毛織物工業が維新後約半世紀の間に急激な成長を遂げながら、どのような特性を作り上げたかについて検討してみたいと思います。