【羊毛講座4】ウールと私達日本人【藤井一義】

(1)急激な成長

幕末の噴から舶来ラシャ、モスリンの一般消費が急速に進んで行く最中に、明治12年(1879年)国営の「千住製絨所」が日本で初めて脂付き羊毛を輸入し、先ずラシャの製造が開始されました。

明治維新でウールと私連日本人の関係が改めて見直されて以来今日まで約120年ほどの歴史を経過していることになります。

しかし日中戦争(1937年)前後の頃から太平洋戦争終結(1945年)頃まで、毛織物工業が満足に操業できなかった空白期間を見逃すわけにゆきません。

従って創業時から日中戦争までの約60年を「前期」とし、太平洋戦争終結後から20世紀末まで約50年余りを「後期」と考えると、いずれも半世紀余りのほぼ同じ長さの期間に分かれます。

この空白期間を境界にしてウールと私達日本人の関係は真二つに分断され、毛織物工業の果たした歴史的な役割や構造も全く違ったものにならざるを得ませんでした。

西欧に比べて決定的に後発で、その上原料市場も生産技術や工場設備もなく、それこそ工場の塀を作る煉瓦一個まで輸入しなければならなかった創業時の状態が、日中戦争のはじまる頃毛織物工業の国際的な位置づけは次の通りでした。

梳毛糸生産設備は英独米仏についで世界第5位、豪州羊毛の輸入量にいたっては実に世界第2位に到達していました。

日本の毛織物協業は全くゼロ・ベースから、やっと半世紀の間に世界中が驚嘆の声を上げるほどの大躍進を遂げていたことになります。しかもその驚嘆の声は敗戦後GHQ調査によってあげられたのですから、いかに躍進のスピードが速かったかは、当時誰も気がつかなかったのです。

(2)運命的なスタート

幕末から明治初期にかけて政府を中心に何度か羊の国内飼育を試みましたが、湿潤な風土のためすへて失敗に終わりました。従って日本の毛織物工業は原料羊毛の調達をすべて輸入に依存せねばならない宿命を背負ってスタートしました。

イギリスにおける毛織物の工業生産が農牧業とともに自然発生的に生まれ、地球的規模で原料羊毛市場とウール製品市場を建設しながら「世界の工場」的位置にまで発展してきた経過とは、先ず創業の時点から全く違った道を歩まぎるを得なかったのです。

戦国の武将達が偶然遭遇した「鉄砲とラシャ」のうち、関心は鉄砲の内製化だけに注がれました。しかし維新前後の日本をめぐる国際情勢の下では、富国強兵のため「鉄砲もラシャも」つまり武器も装備も同時に、しかも出来るだけ早期に内製化する必要に迫られていました。

織田信長のように明治政府はラシャの製造加工に関する一切の接術、設備、組織をヨーロッパから導入し、官特需型の経営を開始しました。

当時一般市民の求めていた和装用モスリン、セルなどの薄地毛織物は、製造技術上の問題もあって明治中期を過ぎてようやく民間企業によって内製化されたのです。

このようにして毛織物の消費市場は官特需と一般民需の二分野で構成されるようになり、官特需優先の流れと舶来尊重の姿勢を維持しながら毛織物工業や衣服工業等が徐々に創業されてゆきました。